瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

万城目学『鹿男あをによし』(2)

 昨日、奈良に行ったことを書いて、いろいろと思い出している。
 高校時代の私は、不良生徒で――といって校則を破ったりはしないので、そういう目立ちたがりの、構ってちゃんの不良ではなくて、構って欲しくないのでそういう目立つことはしないで、夏の水泳を前の年に結膜炎と診断されたことを理由に見学で済ませたり、高2の体育祭の参加競技をHRで決めるときに挙手せずに不参加にしたりと、今から考えてみるととんでもない、精神的に不健全な生徒だった。さすがに体育祭に参加しようとしていないことには高1のときも同級だった野郎が気付いて「××、お前どっこも名前入ってないやないか」と言いに来た。しかし、どうもこのクラスに馴染んでいなかった私は、出ればクラスに貢献出来るのだろうけれども、このクラスに貢献したくないから出ないのだ、と答えて彼を呆れさせてしまったのである。クラスをコントロール出来ていなかった、当時40前に見えた男性の担任は、私に何の注意もしなかった。それで体育の成績に影響が出たのかどうだか、当時は推薦入試なんぞ余程成績が良くない限りは無理だったから(今は推薦の大盤振舞だけれども)評定など全く気にしていなかった。
 結局、このクラスで2年間過ごすのは嫌だと思って、高3では別のコースに移り、そこでは何の波瀾もなく過ごし、体育祭にも普通に参加した。私は1500m持久走を希望して一旦決定しかけたのだが、担任の体育教師が介入してきて陸上部員に譲らされた。しかしそいつと親しくしている野郎が、最近あいつは喫煙してるから保たないだろう、と(多分、部を引退してからだろうけれども)ひそひそ話していたが、案の定途中でバテていた。それはともかく、それで仕方なく、クラス対抗のスウェーデンリレーのアンカーを走ることにしたのである。
 持久走走者の選定には(裏事情を知らずに)失敗した担任であったが、流石に体育教師なだけはあって、私は10クラス中2位でバトンを受け取り、そのまま2位でゴールした。1位は私が元いたクラスで、アンカーは陸上部のエースだったから、追い付けなくても何の問題もなかった。いや、エースよりも前の順位でバトンを持って来てくれなかったことに感謝すべきだろう、私は足が速いと思われていなかったので随分驚かれたものだったが、さすがにエースに抜かれずに逃げ切れたか分からない*1。このエースには大学の1年のときに1度だけ、お茶の水橋の北詰で会ったことがある。エースには高2当時1学年上の彼女がいて、私の記憶はそこで止まっているし、そういうことの機微に疎かったから、――まだ続いているのか、みたいな無粋な質問をして閉口させてしまった*2
 高2の秋の遠足は嵐山だった。現地集合で、まず渡月橋を背景にクラス写真を撮り、後は班に分かれて自由行動ということになったが、私はもっと自由行動したかったので、一応班には入ったが、すぐに脱落して化野念仏寺と愛宕念仏寺の前を素通りして、清滝トンネルの上を越えて、清滝川に出て右岸を下って保津川の合流点に出て、――というルートを歩いたはずなのだが記憶していない。今、Googleストリートビューで当時私が歩いた保津川沿いの道を眺めてみたが、秋の平日の昼日中に学ラン姿でこんなところを1人で歩いていたなんて全く不審者だ。しかし、途中で人に会って訝しがられた記憶もない。ただ長い間、1人きりで誰にも会わずに歩いたような気がしている。
 そして吊り橋(これも記憶していないが)で保津川を渡って山陰本線保津峡駅(現在のトロッコ保津峡駅)に入り、無人駅で勝手に構内に入れるのだが、駅の東から嵐山の北西に伸びる山稜に登る道が携行していた1:25000地形図「京都西北部」に載っていたので、線路脇のコンクリート壁の切れているところから人目を忍びつつ山に入ってみたのだが*3、道がないのである。地形図に載っている道が現地に行くとない、なんてことはこれまでにもしばしば経験していたので驚かなかったが、尾根伝いに嵐山*4から、嵐山駅の方に下りるつもりだったので強引に道なき斜面を攀じ登ったのである、高校の制服姿で。どうしても駄目だったら保津峡駅に戻って山陰本線の上りに乗れば良いだけれども、私は高校の裏山のもっと急な斜面を攀じ登った経験から行けると判断して、そのまましばらく杉林の中を登ると山道に出たので、地形図で位置を確認し、後は道なりに嵐山まで辿って、それから嵯峨の虚空蔵へ下りるつもりが、入園料の必要な何かの施設に出てしまったので、キセルでもしたかのような*5決まりの悪さを感じつつ外に出たのであったが、今、検索して「嵐山モンキーパークいわたやま」という施設だと27年半経って初めて知った。そして何の用事があったのか忘れたが京都嵐山郵便局を回って、嵐山駅に戻ったのである。そして、嵐山遠足でホンマに嵐山に行ったのは俺だけや、と、ひっそりと嘯いていたのだった。
 1人でこんなことをして何が面白いのか、というと、別に何が面白いという程のこともないが、山歩きをする人間は行ったことのないところを歩いてみたくなるものなのである。そして、自ら地図を読んで、読み通りの時間で歩けたことに無上の喜びを見出すのである。そして、この少々無謀な計画を実行するためには、自分で制御出来ない要素は極力排除すべきなので、単独行に限るのである。かつ、私の場合、特に山でないといけないというこだわりはなくて、平地でもどこでもとにかく知らぬ景色を見ながら歩き回っていさえすれば、それで良かったのだった。――こういう筋肉バカ的発想は、未だに抜けない。
 全く『鹿男あをによし』に関係のない話になってしまったが、このまま投稿する。(以下続稿)

*1:10月9日追記】このことには既に2014年8月14日付「ネタバレと引用」の余談で触れていた。

*2:確か高2の年度末に、彼女が東京に進学したことを周囲に突っつかれて(遠距離恋愛になるので)自分も東京の大学を目指す、と言っていたように記憶する。だから私がこんな発想をしたこと自体は、おかしくないのだけれども、――こういう場合、続かなくなることが多い、という智恵が足りなかった。

*3:2019年11月19日追記・『RAIL ROAD〈平成元年3月4日〉嵯峨野線の消える日

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 平成元年(1989)3月2日撮影で、特に説明はないが冒頭は保津峡駅を上り特急列車が通過するところを、構内の跨線橋から撮影。本編は特急あさしお6号の運転室からの前面展望。22:30~50、保津峡駅を通過する。下りホームに下り列車が待避している。そして私が山に入ったと思しき壁の切れ目も確認出来た。ホームと京都寄りのトンネルの間である。――つくづく、よくこんなことをしたものだと思う。折角なら乗れば良かったのだが当時、そんな知識も趣味も金もなかった。もちろん私の行ったときには、構内には誰もおらず、列車にも出合わなかった。本編は京都駅に着いて、折返し米子行となるアナウンスが収録されて終わるが、最後に廃止になる旧駅舎「吉富駅旧駅舎」「馬堀駅旧駅舎」そして「保津峡駅旧駅舎」が紹介され、そして冒頭の保津峡駅特急通過の映像が繰り返されて終わっている。

*4:嵐山駅ではなく山の嵐山。

*5:高校は徒歩通学だったしそういう経験はない。