瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(15)

・だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(3)
 4月17日付(14)の続きで「八王子城の歴史を研究してきた人たちを驚かせた」理由を引いてみよう。11頁上段8行め〜13行め、

 普通の武士なら鉄のよろいを着けているはずで、幽霊は貧しい農民が竹製の武具を身につけた姿と思われる。そんなことは何も知らない警備員は、ただ見たままを語ったのだが、実はこれが歴史的な事実とぴったり合ったのである。


 椚國男『戦国の終わりを告げた城』は警備員に直接取材した訳ではないが、普通に考えて「そんなことは何も知らない」はずだから「ただ見たままを語ったのだ」と思われる訳である。
 11頁上段14行め〜下段14行め、

 天正十八年(一五九〇)六月二十三日の夜明け、天下統一をめざす豊臣秀吉軍勢が、八王子城を襲った。前田利家上杉景勝らが率いる豊臣方は三万とも五万ともいわれる大軍。対して、八王子城を守っていたのは三千名。*1
 このとき、八王子城主・北条氏照は秀吉との決戦に備えて、主だった将兵を率いて小田原城にいたため不在。八王子城には家老以下の将兵のほかに、付近の農民、修験者、僧、鍛冶屋までもが急きょかき集められ、妻や子とともに城に立てこもっていた。*2
 警備員が見た幽霊は、そんな農民兵なかのひとりと思われるのだ。


 八王子城側の事情については『戦国の終わりを告げた城』の次の記述を参考にしているのであろう。「第二章 落城の悲劇」の44頁4行め〜52頁(13行め)「旧暦六月二十三日」の節のうち、45頁6〜12行め、

 八王子城が臨戦体制にはいったのは、すでに書いたように天正十六年一月はじめからであり、/城内には将士のほかに各郷から集められた雑兵・番匠*3(大工)・鍛冶、修験者・僧などがおり、人/質の妻子も多かった。また、兵糧・武器などの資材が集められ、籠城のため多くの小屋や倉庫が/山上などにつくられた。
 十七年の夏、城主氏照は横地監物・狩野一庵・中山勘解由などの老将に留守を頼んで、精兵数/千を引き連れ、小田原に向かった。小田原城で豊臣勢に決戦を挑むためであり、勝ちぬくために/氏政・氏直を支えて、軍事の指導や外交などにあたった。


 ちなみに氏照が八王子城を築く前に居城としていたのが、3月28日付「だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(4)」で見た、初版の1章めに載っていて改訂版では削除された、滝山城である。(以下続稿)

*1:ルビ「としいえかげかつひき」。

*2:ルビ「うじてるしゅげんじゃかじや」。

*3:ルビ「ばんしよう」。