・だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(3)
4月17日付(14)の続きで「八王子城の歴史を研究してきた人たちを驚かせた」理由を引いてみよう。11頁上段8行め〜13行め、
普通の武士なら鉄のよろいを着けてい/るはずで、幽霊は貧しい農民が竹製の武/具を身につけた姿と思われる。そんなこ/とは何も知らない警備員は、ただ見たま/まを語ったのだが、実はこれが歴史的な/事実とぴったり合ったのである。
椚國男『戦国の終わりを告げた城』は警備員に直接取材した訳ではないが、普通に考えて「そんなことは何も知らない」はずだから「ただ見たままを語ったのだ」と思われる訳である。
11頁上段14行め〜下段14行め、
天正十八年(一五九〇)六月二十三日/の夜明け、天下統一をめざす豊臣秀吉の/軍勢が、八王子城を襲った。前田利家、/上杉景勝らが率いる豊臣方は三万とも五/万ともいわれる大軍。対して、八王子城/を守っていたのは三千名。*1
このとき、八王子城主・北条氏照は秀/吉との決戦に備えて、主だった将兵を率/いて小田原城にいたため不在。八王子城/には家老以下の将兵のほかに、付近の農/民、修験者、僧、鍛冶屋までもが急きょ/かき集められ、妻や子とともに城に立て/こもっていた。*2
警備員が見た幽霊は、そんな農民兵の/なかのひとりと思われるのだ。
八王子城側の事情については『戦国の終わりを告げた城』の次の記述を参考にしているのであろう。「第二章 落城の悲劇」の44頁4行め〜52頁(13行め)「旧暦六月二十三日」の節のうち、45頁6〜12行め、
八王子城が臨戦体制にはいったのは、すでに書いたように天正十六年一月はじめからであり、/城内には将士のほかに各郷から集められた雑兵・番匠*3(大工)・鍛冶、修験者・僧などがおり、人/質の妻子も多かった。また、兵糧・武器などの資材が集められ、籠城のため多くの小屋や倉庫が/山上などにつくられた。
十七年の夏、城主氏照は横地監物・狩野一庵・中山勘解由などの老将に留守を頼んで、精兵数/千を引き連れ、小田原に向かった。小田原城で豊臣勢に決戦を挑むためであり、勝ちぬくために/氏政・氏直を支えて、軍事の指導や外交などにあたった。
ちなみに氏照が八王子城を築く前に居城としていたのが、3月28日付「だーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』(4)」で見た、初版の1章めに載っていて改訂版では削除された、滝山城である。(以下続稿)