瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『鬼畜』(4)

・映画(4)野村芳太郎監督
 西村雄一郎『清張映画にかけた男たち』の映画『鬼畜』に関する記述は、西村氏のブログ「西村雄一郎のブログ」の2014-08-01「ドキュメント「張込み」㉙ 井手雅人の哀しい物語」を改稿したものである。この、脚本家の体験にウェイトを置いたブログ版の題が書籍版では「ラストの二つの解釈」と改められている。
 ブログ版の書き出しは次のようになっている。書籍版(215頁3〜5行め)との異同を注記し、書籍版の改行箇所を「/」で示した。

 ある時、*1佐賀新聞*2論説委員である*3氏から、*4電話をもらった。*5氏は、/岸和田市で起こった幼児虐待事件を、*6コラム「有明抄」(2004年2月2日*7掲載)で取り上/げ、「鬼畜」(78年)*8を引き合いに出したという。「鬼畜」は、妾に作らせた子供を父親(緒形拳)が捨てに行く松本清張原作の映画。*9


 書籍版の書き出しは主眼とするところの移動により、次のようになっている。214頁18行め〜215頁2行め、

 よその女(小川真由美)に産ませた三人の子供を引き取った印刷屋の主人(緒形拳)が、妻/(岩下志麻)の言われるままに、子供たちを殺し、捨てようとする恐ろしい話だ。この映画は、/常にラスト・シーンが問題になる。以下は、実際にあった話である。


 「佐賀新聞」の論説委員から西村氏に掛かってきた要件について述べた段落はほぼ同文である。ブログ版をもとに、書籍版との異同と改行位置(215頁6〜10行め)を記入した。

 *10氏は、ラストで「自分を崖から突き落として殺そうとした父親を、長男は警察の取り調/べで、違う人だとかばう。切っても切れない親子のきずなが胸を打った」と書いた。ところが/読者から、「あれは父をかばったのではなく、あんな人は親じゃないという叫びだ」と反論の/投書が来たそうだ。「どちらが本当なのか?」と聞かれたので、私は「どちらも本当だ」と答/えた。


 私はもちろんU氏の理解は成り立たないと考えていて、このような解釈は要するに、宣伝文句に引き摺られて誤読させられてしまったもの、と思っているのだけれども、読者からの投書も、前半は良いとして後半「あんな人は親じゃないという叫び」と云うのは、やはり幼児の行動に道徳的判断を持ち込み過ぎているように思われるのである。
 全くそういう気持ちがなかったとは云わない。しかし、昔話の孝子譚に出て来る賢い子供*11じゃあるまいし、あんな幼児が善悪理非を前面に打ち出して親を詰ったりする筈もないので、もっと根源的な、生存するためにはこの人との縁を切らないといけない、という切実かつ必死の訴えなのである*12。しかしこれは、恐らく、――自分はこのまま此処にいてはならない、このままでは駄目になる、と思って、その境遇から必死の思いで抜け出したといったような経験のない、幸せな人たちにはまるで理解出来ない心情であろう。(以下続稿)

*1:書籍版ナシ。

*2:書籍版「社」あり。

*3:書籍版「上杉芳久」。

*4:書籍版「この映画のことで」あり。

*5:書籍版「上杉」。

*6:書籍版「小」あり。

*7:書籍版は漢数字で「二〇〇四年二月二日」。

*8:書籍版ナシ。

*9:書籍版は次に引いた通りこれより前の段落でもう少々詳しく紹介。

*10:書籍版「上杉」。

*11:祖父を棄てようとする父をたしなめたりする、賢過ぎる子供とか。

*12:「かばった」などという解釈は、論外である。