瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『鬼畜』(11)

 昨日の続きで、桂千穂+編集部「松本清張映像作品 サスペンスと感動の秘密メディアックスMOOK448)から、映画「鬼畜」の助監督松原信吾(1947生)に対するインタビューの、3節めの2段落め(065頁中段4〜20行め)を見て置こう。

 余談ですけど、/当時、予告編を作/るのは、助監督の/仕事ですから、こ/の映画の予告編は、/僕が作ったんです。/「父と子の愛と/哀しみの旅は…」/「切っても切れぬ親/子の絆を描いて」/「胸にせまるこの感/動!」っていうスー/パーを入れたら会/社に褒められまし/た。これで売り文/句が決まったって/(笑)。


 そもそも「鬼畜」を検討して見ようと私が思ったのは、2013年3月14日付(01)に引いたチラシの宣伝文句や予告篇の文句が、内容と乖離していることに疑問を持ったからであった。内容を深く理解した者――監督が作ったとは思えなかった。4月29日付(04)に紹介した「西村雄一郎のブログ」及び西村雄一郎『清張映画にかけた男たち』には、脚本家井手雅人が不満を抱いていたと書いてある*1が、当然である。
 このもやもやが、このインタビューを読んで、腑に落ちたのである。
 どうも、この映画を「砂の器」の延長のように捉えている者が少なからず、いるらしい。「みんなのシネマレビュー」というサイトに投稿されたレビューにも「いまさっき砂の器を観て 鬼畜と同じで松本清張は親子の絆が好きだなぁ と思った」云々と云うのがあるのだけれども、これは完全な誤解で、『砂の器』の原作では、和賀英良は国外逃亡を図って出国直前に羽田空港で逮捕されるので、父本浦千代吉のことを思いつつ交響曲「宿命」を延々演奏したりしないのである。大体、千代吉はとっくに死亡していて、親子で庇い合う必要もない。ただひたすら、自分が成り上がるための障害となる、父がハンセン病であった事実を隠したいだけなのである。『砂の器』が親子の絆みたいな話になってしまったのは野村芳太郎監督の映画(橋本忍脚本)のせいであって、原作の和賀英良は冷酷非情な連続殺人犯なのである。――親子の絆などと云うのはむしろ「清張らしからぬ」と云った方が良いと思う。「鬼畜」の原作にしても子供が最後まで父を庇ったとか云う話ではない。
 それはともかくとして、松原氏もこのレビュー投稿者と同じ流れで理解したから「親子の絆」がテーマだと思ったのであろう。観客の多くが「親子の絆」を感じ取ったとすれば松原氏の予告篇と、これを受けて会社サイドが打った宣伝(ポスター・ちらしその他)の影響が大きいであろうが、そうでなくとも映画「砂の器」の延長線上に位置付けて「親子の絆」と読み取る人も、一定数存在すると思うのである*2
 さて、ラストシーンの「父ちゃんじゃない」が(昨日引いた松原氏の記憶通り、当初脚本になく撮影中に追加されたものだとすれば話が変わって来るが)西村氏が指摘するように当初からあったのだとすれば、話の流れからして「庇うために言った」とは読めないから、野村監督は予告篇が誤解していることを承知した上で、敢えてそのままにしたことになる。
 私はこれを、――会社サイドもこの予告篇を気に入っているから、生真面目に争うのが面倒で(脚本家が気を悪くしたとしても)そのままにした、と云った按配の消極的な同意ではなく、積極的に、この助監督と会社サイドの誤解を「我が意を得たり」とばかりに利用したのだ、と思いたいのだ*3が、これについての私の見当はまた改めて述べることにしたい。(以下続稿)

*1:ここは、昨日も述べたように西村氏の記述だけでなく、もう少々資料を漁って補強したいと思っている。

*2:同系統に位置付けられる作品の理解に、先行作品(或いは後続作品)の解釈を援用することは、別におかしなことではない。だから、このように読めてしまう人が出て来ること自体、変だとは思わないし、やってはいけないこととも思わない。問題は、それがこの場合、妥当と云えるかどうか、なのである。

*3:もちろん、映画本編は2013年3月15日付(02)にその内容を確認したように、西村氏の指摘する脚本家の意図を損なわずに撮影されているのであって、決して脚本はないがしろにはされていない。――松原氏の云う台詞の追加は記憶違いである、と云う前提での話ではあるが。