瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(1)

 私は争い事が嫌いで、タダでも出来るようなスポーツに法外な金を投じる神経もよく分からないので、戦争なども馬鹿馬鹿しいと思っていて、どれだけ貴重な文化遺産や伝統が、戦争によって失われたか、それを考えると破壊を目的とする軍事費も馬鹿馬鹿しいと思うのです。しかし、この馬鹿馬鹿しいことが止められない。まぁ過去に破壊された伝統がそのままで良かったのか、と云う議論もありましょう。
 2012年5月23日付「再びコメント欄について(3)」に「こんな自分語りは、もうしばらくは、しないで置くつもりだったのですが」と書いたのですが、最近、盛んに自分語りをしております。そのきっかけは2月23日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(15)」等で、ギンティ小林が私と同学年であったことを証明するために、小林氏の情報は書いてある以上のことは分かりませんから(他の本に書いてあるのかも知れないがそこまで調査の手を拡げていない)私の記憶や閲歴と対照させる必要があって、いろいろと過去のことを思い出すようになったのが、理由の第1です。
 それで、4月2日付「万城目学『鹿男あをによし』(2)」に高校時代のことを急に思い出して書きなどしたのでしたが、そこにもう1つ、過去を振り返りたくなる事情が出来しました。……熊本城が崩れたのは、大してショックでもなく、それは九州に行ったことのない私には熊本城に全く思い入れがないからですが――私などは生活再建よりも前に熊本城再建の話が出ていることを不審に思っているくらいなので、そもそも再建する必要があるのか、と思うのです。むしろ、民家が崩潰して家族の想い出の品などが散乱している様の方が余程衝撃でした。
 幼少期を同じ場所で過ごすことの出来なかった私は、物や記憶が過去に住んだ土地と私を繋ぐ形見になる訳で、そういうものへの執着が強いようです。いつも傍にいる、いつでも帰れる、そんな場所を持ちません。それで、こういう個人的な記念品が意味をなくしてしまう場面に出くわすのが辛いのです。
 そんな気持ちが強いせいか、私は個人の事情を語るのが嫌いではないのです。いえ、むしろ、転校先で周囲とやることが違ってしまった場合、転校前はこうだったのだ、と云う弁明をして、正当性――とまでは云わないまでも、笑われる筋合いはないのだ、と云うことを自ら示す必要があったので、当人にとってそのようにする必然性を説明出来るようにして置くことには、切実なものがあったのです。まぁ、煩い奴だったでしょうけれども*1
 それが、大学院に入って論文について先輩に指導された折、結論と、結論を述べるために必要な手続きだけ述べれば良いので、どうしてこのような調査をしようと思ったのか、だの、やってみてどう思ったのか、だのと云う個人的な感慨(すなわち自分語り)を差し挟むべきではない、と云ったようなことを言われたのです。確かに、それは対象となってる作品や人物には全く関係しないことですから、最初は私も真面目にそんなつもりでおったのですが、どうも、それは不親切だと思うようになったのです。
 大体、文系の研究というものは基本的に個人のやることなんだから、どれだけ調べても完全に公平な、客観的な眼を以て対象を論じることなど出来ません。無数に存する研究課題のうち、特にその対象を選んで少なからぬ手間と時間を掛けて調べ、ない智恵を絞ってあれやこれやと考えたのには、やはり個人的な成り行きが存するはずなのです。だから、そういうことも書いて置いた方が、後に私の論文を読んで偏りに気付いた研究者が、こういう成り行きで調査していたからこのような思い入れが出来てしまったのだな、と察し易くなると思うのです。まぁそんな照明も当たらぬまま埋もれてしまう可能性の方が大ですけれども。――こんなことを考えたのは、私が過去の研究者の業績について辿ったときに、そういう記述のない論文では意図を測りかねるのに対し、書いてあると内容の把握にも資するところがあったからです。

書物捜索〈下〉 (1979年)

書物捜索〈下〉 (1979年)

 横山重(1896.1.22〜1980.10.8)はそういうことをよく書いた人なのですが、『書物捜索』はむしろそちらをメインにした随筆で、調査過程でのトラブルなども具体的に書いた国文学者は滅多にいませんから、戦前の国文学界の事情が非常によく分かるのですけれども書名索引しかありません。そこで人名索引を、それから、書名索引にも若干漏れがあり、かつ古典籍に限られているので新しい書物にも範囲を拡げたものを作成しかけたことがありました。これも、もう10年以上中絶したままになっているのですが、何とか完成させて、当ブログに公開したいと思っています。
 それはともかく、横山氏が調査した本も戦災で多くが失われました。それ以前に関東大震災で失われた本も少なくありません。私の集めた資料も、まさか今後戦災があるとは思っていません*2が、地盤が安定して浸水の怖れないところを選んで住んでいるつもりながら、どんな災難で失われるかも分かりません。そういう機会がなかったとしても、私が死んだり動けなくなったとき、他人が湮滅を惜しんで資料を引き取って整理してくれる訳がありませんから、自分で何とかしないといけない訳です。どうともせずにこのまま残したら、見た目はただの紙屑ですから、全くの紙屑扱いをされてお終いでしょう。未整理のまま他人に押し付けられる程の価値はないので、自らそれなりの価値を引き出してやらないといけません。
 そこで、追々過去に私が調査したり記憶を書き留めたりしたノート類を当ブログにまとめて置こうと思うのですが、まづ昭和59年(1984)4月から昭和62年(1987)3月、横浜市立某中学校の生徒だった頃に書いたもののうち、恐らく中学2年生の夏に書いたノートを公開しましょう。(以下続稿)

*1:この辺りの事情は5月26日付「昭和50年代前半の記憶(3)」の前後に書いた。

*2:もしそんなことになるのなら、ついでに地球を焼き尽くしていっそ地球ごと滅びてしまえば良いとさえ思います。まぁ実際にはそんな派手なことにはならず、じわじわ隅から攻め取られるのでしょうが。