瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

消えた乗客(1)

・大正期、大森駅近く、人力車
 昨日久し振りに触れた岩佐東一郎(1905.3.8〜1974.5.31)の『隨筆くりくり坊主』には、怪談めいた話は殆どないのだけれども、52篇め、一八八〜一九五頁2行め「近所界隈」に、埋もれてしまった事故と、それに由来する怪談についての記述があって、通読した当時記事にしようと思ったのだけれどもそのままになっていた*1
 一八九頁12行め〜一九一頁11行め、

 本當みたいな嘘といへば、ずつと以前の、池上本門寺のお會式の晩に、あまりの混雜のため、/鐵道線路へはみ出して歩いてゐた群衆が、省線電車(その頃は院線電車だつたかもしれないが)【一八九】を避け損つて、卅人餘りも轢殺された事件があつた。これは本當である。
 その翌朝、中學生だつた僕は登校のため、大森驛に入ると、列車ホームの待合室の中に、白木/の棺がずらりと並べてあつたのを見て思はずぞーつとしたことを憶えてゐる。
 その後、誰がいひ出したか判らないが、次のやうな怪談が流布されたのだ。
 今でもさうだが、大森驛の山王口には人力車が盛大にならんで客を待つてゐる。タキシーもあ/るが人力車側も繁昌してゐる。これはタキシイの這入れぬ道路の狭さが人力車に味方してゐるた/めなのだ。まして、その頃は、驛待の人力車の親方の勢力は大したものだつたらしい。
 そのため、加入する資金のない車夫たちは、所謂辻待車となつて、驛からずつと離れた坂の下/に屯して客を待つてゐたものだ。この坂の名前が「くらやみ坂」と云つて、木原山への上り口で/ある。
 その「くらやみ坂」下の人力車の溜りへ、ある雨の晩(どうも怪談は主に雨の晩に限つてる。/たまには月夜でもよささうなのに)五六人の客が「池上本門寺まで」といつて乘りこんだ、めつ/たにない、いい客と、車夫たちは、雨の晩だからたんまり祝儀にもありつけるだらうとニコ/\【一九〇】顔で、五六台、全部出拂ひの形で、雨の中をぴた/\走り出した。
 そして大森から池上への道の半分ばかり來た時、車夫たちは急に、あつと驚いて一せいに車を/とめた。といふのは、急に空車同樣の輕さになつたからだ。旦那、御冗談をなすつちやいけませ/ん、と、前の幌をはづして中をのぞきこむと、中には客の姿はなくて、膝かけの布ばかりが、丁/度客の膝にかゝつてゐるやうに、丸く宙に浮いてゐた、といふ。その場所が、恰もお會式の晩の/轢死人のあつた線路に近かつたともいふ。
 こんな話も中學生の僕には身にしみて怖く、當分の間は、恥かし乍ら夜になると一人で便所へ/いく事が出來なかつた。(最近、江戸小咄本を讀んだら、臆病な武家が、夜はばかりに行く時は必/ず女房を外に待たして、「そなたはそこにゐて怖はくはないか」と聞くと、「何の怖いことがござい/ませう」との返事に「ムヽ、流石は武家の妻ぢや」と云つた、と云ふのがあつて、苦笑させられ/た。)怪談ながら、あくどくないのがいい。


 この事故については、鐵道省大臣官房研究所編纂『大正八年度鐵道災害記事』(目次4頁+185頁)に見えている。奥付がないが扉に捺されている子持枠の横長楕円印に「大正/14.3 28/寄贈」とある。159〜185頁「第二編 列 車 事 故」の169頁1〜6行めに、

       九、東海道本線蒲田大森間ニ於ケル電車事故
                            (十月十二日午後十時二十五分)
 蒲田大森間ニ於テ電車第九三二列車運轉中六哩七鎻附近ニテ電車第九三三列車ト行違ノ際前途約一〇〇呎ノ線路内/ニ黒影ヲ認メシ故急遽停車ニ努メタリシモ及バズ遂ニ公衆即死八名重傷三名(内二名入院後死亡)ヲ生ズルニ至レル/ガ、現場ハ池上街道ニ接シタル地點ニシテ時恰モ當日ハ池上本門寺會式ニテ參詣ノ群衆ガ柵垣ヲ越ヱテ線路内ヲ通行/セシ爲斯ル危害ヲ生ゼシナリ。

とある。なお「目次」4頁6行めには、

 九、東海道本線蒲田大森間ニ於ケル電車事故……………………………………………………………… 一六九

とあり、他の事故には括弧( )で日付が添えてあるが、この事故のみ落ちている。頁を示す漢数字は半角。
 それはともかくとして、岩佐氏の記述を読むと「三十人余り」の「白木の棺がずらりと並べてあ」る光景を想像してしまうが、実際には死亡者数が岩佐氏の記述の1/3、即死者なら1/4程度であったのである。尤も「ホームの待合室の中」にそんなに棺が並ぶとも思えないのであるが。ちなみに大正8年(1919)10月12日は日曜日で、岩佐氏が棺を目撃したのは翌13日の月曜日と云うことになる。ところで鐵道院が鐵道省に昇格したのは大正9年(1920)5月なので「省線」になる半年前であった。
 池上街道は大森駅山王口の南400m程で線路から離れるので「蒲田大森間」と云っても極、大森寄りである。上り下りの「行違ノ際」に大森駅に入る上り電車に接触したのである。
 大森駅山王口の人力車については、中野健作(1959生)のサイト「馬込文学マラソン」の2015.3.22「人力車の盛衰」に、石井鶴三(1887.6.5〜1973.3.17)が大正8年(1919)に発表した、大森駅山王口を描いた版画や、同年執筆の芥川龍之介(1892.3.1〜1927.7.24)の「魔術」等に触れて参考になる。但し人力車が昭和15年(1940)頃にも山王口に勢力を張っていたことや、その理由のついては触れていない。
 闇坂は現在の大田区山王2丁目(3番地・12番地)と山王3丁目(31番地)の間の坂、木原山は現在の山王3丁目・4丁目に跨る丘陵地で、江戸時代には旗本木原氏の屋敷であった。「大森から池上への道の半分ばかり来た」辺りが「あたかもお会式の晩の轢死人のあった線路に近かったともいう」と云うのだが、先述のように池上街道は大森駅から数百mで線路から離れてしまうのだが、その線路から離れる辺りが闇坂の上り口なのである。すなわち、乗客が消えた辺りと云うより乗せた辺りが問題なので「大森から池上への道の半分ばかり」ならば、それは線路際では現在の大田区中央4丁目、大森赤十字病院の辺りである。何故地元住民の岩佐氏がこのような書き方をしてしまったのか、不審ではあるがやはり岩佐氏の誤りと見なさざるを得ない。
 タクシーや鉄道での類話*2の場合、乗務員は気配で察するだけなのだが、人力車の場合、乗っているかいないかは重さで分かるから、いつの間にか、気が附いたときには消えていた、と云う段取りには出来ない。すなわち途中まで、幽霊なのにしっかりと重さがあったことになる*3のだが、それは一体どういうカラクリなのであろうか。しかし、膝掛が丸く宙に浮いていた、とは御丁寧で可笑しい。――昔から態とらしい尾鰭を附けて人を脅す輩は少なくなかったのである。(以下続稿)

*1:初出を確認していないことも記事にするのを躊躇させていたが、収録諸篇の執筆時期は昭和14年(1939)から昭和16年(1941)で動かないので、初出未確認ながら取り敢えず示して置くことにした。

*2:鉄道や路線バスの例は2012年4月21日付「終電車の幽霊(2)」に言及した。タクシーの例は一々挙げるに及ばないであろう。

*3:さもなければ、最初から乗っているのかどうか分からないくらい軽くて、余りに軽いから途中で振り向いて見ると乗っているから、――痩せた娘だけれども、それにしても随分軽いな、と思いながら走って、最終的に、そういう因縁のある目的地で消えていた、と云うことにしないと成り立たない。……そして、そういう話を読んだ記憶もあるが、俄に思い出せない。