6月22日付(2)の続き。
この映画についての大林宣彦監督のコメントは、仕事――発見シリーズ㉖『映画監督』及びその加筆修正版『ぼくの映画人生』を参照した。
ところで、私が問題にしている原作者横溝正史と角川春樹の出演シーンは、6月9日付(1)に引用したWikipedia「金田一耕助の冒険」の項では、典拠として脚注に「大林宣彦 『映画、この指とまれ』 徳間書店〈アニメージュ#レーベルアニメージュ文庫〉、1990年、77頁。ISBN-4-19-669627-9。」が挙がっている。Wikipediaの纏め方には疑問もあるので、念のため原本を確認して置こうと思ったのである。
・アニメージュ文庫『映画、この指とまれ』1990年2月28日初刷・定価408円・徳間書店・287頁
奥付には「著 者 大 林 宣 彦*1」とあるが、奥付の上部に、左に顔写真、その右に横組みで5行、1行めはゴシック体の著者名に振仮名明朝体、以下4行は明朝体の紹介文で2人、1人めは「大林宣彦*2」だがその下に2人め「野村正昭*3」が載る。カバー背表紙には明朝体で「大林宣彦」のみだがカバー表紙にはゴシック体横組みで「大林宣彦」の他に白抜き「構成・文/野村正昭」があり、1頁(頁付なし)扉にも明朝体太字横組みで「大林宣彦」の下に小さく1行「構成・文/野村正昭」とある。
この辺りの事情は2〜3頁(頁付なし)目次に続く、4〜9頁、野村正昭「はじめに」に記述されている。7頁5行めから8頁1行め、
大林映画に登場する人々のエピソードをまとめれば、これまでに書か/れたことのない、新しい角度からの映画の本になるのではないかという/話が、僕と監督との間に出たのは、三年前の夏のことになる。一度きり/しか登場しない大スターもいれば、もはや役柄を越えて、すっかり常連/になって出演している役者さんもいる。大林映画にとっては、どちらも/同じように重要な存在なのだ。そうした人たちに夢のかけらが積み重な/って、大林ワールドが形作られていく。
まず、大林監督に、こちらの用意した資料に基づいて、思う存分話し/ていただき、それを野村が構成するという形で、本書は成立した。八九/年初め、山中湖畔の美しいホテルで、監督は文字どおり、三日三晩、声/が嗄れるまで、いろいろなエピソードを話してくださった。その絶妙な/語り口を、どこまで生かせるかはわからないが、本文中に登場する人々/の記述の長短については、すべて野村の判断に拠っている。紙数の都合/で、やむなく割愛させていただいた人々やエピソードも多くあり、それ/はまた次の機会にと、お詫びしておきたい。*4
すなわち、内容は大林氏の映画に出演した役者について、大林氏が何故出演依頼したのか、どのように個性を生かそうとしたか、撮影中にどんなことがあったか、これからどんな仕事をしたいか、或いは計画倒れに終わってしまった映画のことなど、1人1人について(時には2人セットの)列伝体で語って行くような按配になっていて、特に映画別・年代別の整理はなされていない。
映画を見ていなくても非常に興味深く読めるのだが、細目は別の機会に紹介することにして、今回はWikipediaに云う「77頁」周辺を確認するに止めて置く。
47〜83頁「第二章 A MOVIEの二重構造」の最後に、72〜74頁「古谷一行/愛に参加できない金田一耕助」75〜77頁「田中邦衛/まっとうで実直な感性を持った人」78〜79頁「熊谷美由紀/グラビアの中の少女の眼差し」80〜81頁「三船敏郎/地肌で芝居できる大スター*5」82〜83頁「岡田茉莉子/愛のドラマの核心を突くセリフ」と、大林氏の監督作品の出演が結果的にこの映画のみになっている役者が並ぶ。
さて「田中邦衛」に関する記述は77頁1行めで終わっており、2〜9行めが以下のような余談になっている。
パロディといえば「金田一耕助の冒険」最大のギャグは、プロデュー/サーの角川春樹氏が原作者の横溝正史氏の家へトランクいっぱいの原作/料の札束を運んでくる、「さすが大作映画ですなあ」と横溝氏が見ると、/それは中身は白紙を挟んだ撮影用の贋の札束。すかさず横溝氏「中身は/薄いですなあ!」。これは当時、誇大宣伝によって客は集めるものの、/中身は薄いといわれ続けた角川映画へのパロディであり、その批判精神/をいちばん面白がったのが当の角川氏自身だった。氏にとっても、やは/りそれは、一つの挑戦だったのでしょう。*6
6月9日付(1)に指摘したように、台詞が映画とは異なっている。地の文はWikipediaでは若干刈り込まれて、改悪になっている。――本書は大変面白いエピソード集で、中川右介『角川映画』が参照していないのが勿体ないのだけれども、記憶に頼って喋るとなると、監督本人であってもこの程度にはズレてしまうのである。映画の場面については映画を見て確認すべきであったか、とも思うのだが、そんなことをすると記憶の微妙なズレを調整するのが頗る面倒なことになってしまう。「語り」を「生か」すとすれば、ズレもそのままにした方が良い。利用する人間がこういうものだと心得て、引用に際して映画と付き合わせるなどすれば良いのだ。(以下続稿)