瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』(2)

 昨日の続き。
・未知谷版(1)
 未知谷版は幾つかの図書館で見た記憶があるが、どの本にもカバーは掛かっていなかったから、函に入っていたのであろう。
 1頁(頁付なし)「戦中派虫けら日記 目次」。
 2頁(頁付なし)下部中央に明朝体縦組みで小さく、

本作品には、現在の状況からすると或いは/穏当を欠くかと思われる表現もある。しか/し、昭和十七年から昭和十九年という得意/な時代を生きた記録文学であることに鑑み、/原文のままそれを当用した。又、底本には/『滅失への青春』(大和書房、昭48刊)を用/い、著者の希望により改題した。 編集部*1

とある。
 3頁(頁付なし)中扉、上部中央に明朝体縦組みで小さく「戦中派虫けら日記――滅失への青春」とある。
 4頁(頁付なし)下部中央に明朝体縦組みでごく小さく「扉裏主要年表製作山田風太郎」とある。
 本文については文庫版等と比較しつつメモして置くことにするが、日記本文は405頁まで、407頁(頁付なし)が「あとがき」の扉で、413頁までで頁付はここまで。その裏、下部に明朝体縦組み(氏名のみ明朝体太字)で、

山田風太郎(やまだ・ふうたろう)
大正十一(一九二二)年一月四日、兵庫県に生まれる。/東京医科大学卒業。
五歳にして父が逝き、十五歳にして母も逝く。義父であ/る叔父との生活に馴染まず、昭和十七(一九四二)年夏/故郷但馬を出奔、戦時下の首都東京で医学校入学を目標/に三帖一間の勤労生活に入る。同年十一月末より内省的/対話を求めて日記をつけ始める。昭和十九(一九四四)/年春東京医学専門学校入学。在校中の作品「達磨峠の事/件」が雑誌『宝石』の懸賞小説に当選(昭和二十二、一/九四七年)、江戸川乱歩に励まされつつ作家生活に入る。/一世を風靡して今なお新たな読者を獲得しつつある忍法/もの、明治もの、南北朝もの、そして随筆、記録文学と、/異能を存分に発揮しつつ現在に至る。

とある。次に奥付、奥付の裏は白紙。
 さて、「あとがき」の末尾(413頁11〜12行め)には「昭和四十八年七月/山田 風太郎」とあって、未知谷版刊行に際しての感慨等は追加されていない。どうも、この復刊に山田氏は積極的ではなかったらしいのである。(以下続稿)

*1:二重鍵括弧は半角。