瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

広坂朋信『東京怪談ディテクション』(1)

・『東京怪談ディテクション――都市伝説の現場検証』1998年8月20日初版第1刷発行・定価1700円・希林館・246頁・四六判並製本

東京怪談ディテクション―都市伝説の現場検証

東京怪談ディテクション―都市伝説の現場検証

 大学院に入った頃までは図書館で本を借りて、良ければ文庫本なら買っていた。その頃から単行本は買わなくなっていた。何故なら、私の読むような本は、何時行っても大抵借り出されずに図書館の棚にそのままあったからである。その後、論文執筆等で研究資料のコピーが積み上がって来ると、整理するのが面倒になってコピーも取らなくなった。行けばあるからである。
 古書店も、止むに止まれぬ理由がない限り、利用しない。古書店で漁るよりも先に、図書館派になってしまったため、そもそも古書店を活用しようと云う発想が希薄なのである。所有しようとまでの慾がない。殆ど現金を持ち歩かない。既にとっちらかってる家に、これ以上本を持ち込めない。借りた本なら返せばなくなるが、買った本は残る。――売ったり棄てたり出来ない性質なのである。
 そんな訳で、何時しか文庫本も買わなくなっていた。地方に住んでいれば買ったろうが、東京は異常に図書館が充実している。文庫本の諸刷を比較して、大体の変遷を辿る、なんてことが出来るのも東京在住なればこそである。
 しかし、よく使う本や、もっとしっかり読み込むべき本は、購入して手許に置いた方が良いに決まっているのである。が、たまに買ったりしても、買うとそれで安心してしまうのか、そのまま棚で埃を被らせてしまう。
 本書のことは以前から取り上げようと思いつつ、都内の図書館にはあまり所蔵されていないため、なかなか手許に止めて置くことが出来なかった。たまに所蔵している館に出掛けても棚にない。借りられたとしても予約が入って、延長出来ずに返してしまう。そんな訳でSlow starterの私は、ここ2年半程の間、たまに借りては眺めるだけで過ごして来た。今、私が借りている館の本は落丁しかかっていて、何時まで無事に図書館の棚に並べてもらえるか分からない。……じゃあ買えば良いのだけれども。ちなみに、著者広坂朋信(1963生)のブログ「恐妻家の献立表」の2014-05-25「『東京怪談ディテクション』について」に拠ると、版元廃業のため古書店で探すしかないとのこと。
 もう一つ、以上のだらしのない物理的な事情の他に、記事にしにくかった理由がある。
 245〜246頁「あとがき」から、245頁5〜10行めを抜いて置こう。

 タイトルに掲げた「ディテクション」とは、探偵、探索、捜査の意味の英語からとったが、本書の/内容は御覧の通り、案内や記録が大半を占める。羊頭狗肉の謗りは免れないが、筆者の力の及ばなか/ったところは、読者ご自身が現場検証におもむいて探索できるよう、現場の見取図くらいは提示した/つもりだ。また、この種の本では省略されがちな怪談の出典については読者が確認できるよう、でき/るだけ本文中に明記する方針をとった。本書が割愛した東京都内の怪談についてもそれらの文献にあ/るので、読者ご自身の調査資料を揃える目安になれば幸いである。


 この「出典」の「明記」と云うのが有難いのだけれども、示されてしまうと「出典」まで遡って検討しない訳には行かなくなる。しかし、今から20年以上前に刊行された、「この種」のいかがわしい本と云うのは、仮に図書館に入ったことがあったとしても既に除籍になって、公立図書館には全くと云って良い程所蔵されていない。もちろん、そんな本の古書価が高騰するなんてこともないので、入手出来なくはないが、怪談研究家になるつもりもなく、限られた部分を一時的に必要としているに過ぎないので、ずっと手許に置いておきたくもないのである。短期間手許に置いて一通り目を通して、何かの折に見に行ければ良いのである。――当ブログも、詰まるところ図書館活用生活の記録みたいなもので、図書館で間に合わない資料まで手が伸ばせないことになってしまうのだけれども、際限なく拡げる余裕もない以上、それも仕方がないと思っている。
 それはともかく、このような検証をした本としては、以前、小池壮彦(1963生)の本を何冊か取り上げたことがあった。最近情緒纏綿たるエッセイストのようになってしまった小池氏も取り上げづらくなっているのだけれども、以前の小池氏は調査結果をあまり難しい学説を援用せずに、典拠を明示しつつ理屈で割り切って書いていたので良かったのである*1。一方、広坂氏の「現場検証」は小池氏のような体育会系ではなく文系で、一つ一つにかなりのボリュームを割いて、かなりみっちりと歴史的・地理的背景や民俗学を援用して検証を行っている。ところが、私はどうも、2011年3月22日付「幽霊と妖怪」に書いたように、深い解釈が苦手なのである。だからその辺りのことには触れる意欲が湧かないのだけれども、そうすると誤植だの事実誤認だの、詰まらないことばかり論うことになってしまう。それも何だかな、と思って躊躇していたのである。
 しかしながら、2014年4月10日付「赤いマント(130)」をきっかけとして度々を頂戴していたし、本書に関連する記事も用意しているので、表面的な利用に止まるけれども今後、ぼちぼち本書にも触れて行くことにした。次回、細目を示すことにする。(以下続稿)

*1:今でも理屈で割る、と云うのは同じだけれども、典拠を示さないので情緒(feeling)で割っているような印象を受けてしまう。