瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山田風太郎『戦中派虫けら日記』(8)

 昨日の続き。
 日記原本は公開されていないようだが、何頁かが図版として掲載されたことはある。
・別冊太陽 日本のこころ 198「山田風太郎 2012年8月25日初版第1刷発行・平凡社・定価2400円・159頁・A4判並製本

山田風太郎 (別冊太陽 日本のこころ)

山田風太郎 (別冊太陽 日本のこころ)

 58頁と59頁にカラー図版にて掲載されている。なお、この辺りの本文(56〜59頁)は鎌田慧ドキュメンタリーの新手法/『同日同刻』誤断の証明」で、『戦中派虫けら日記』には全く触れていない。
 58頁上段右に、日記の1頁が下に「1942(昭和17)年11月25日の日記。日記を書いておこうと/思い立った心の動きが記してある。」とのゴシック体横組みのキャプションを添えて掲載される。

〔十一月廿五日〕
 地上には白い霧が淡く降りてゐるが、空は燦爛たる蒼い日の光に/滿ちた美しい朝である。田町驛から會社へ半里の路を、大股に/歩き乍ら自分は、微笑を洩らし續けた。
 何かこの頃は愉快でならない。天氣のよいせゐであらうか? /それもある。自分が働いて生きてゐると云ふ滿足感の爲であら/うか? それもある。が、歡喜は心の内面からほのかに照り通っ/てくるやうな氣がする。
 「眞」とは何であるか? 「善」とは何であるか? 「美」とは何であるか?/これを追い求める心が漸く微か乍ら萠え出て來て、それが魂の/内側へ次第に廻り込んで行く最初の出発点へ立ったやうな喜/悦の年である。
 日記は魂の赤裸々の記録である。が、暗い魂は自分でも見/つめたくない。日記を書いて置かうと思ひ立ったのも、この悦/ばしく明るい魂のせゐかも知れぬ。しかし、嘘はつくまい。嘘の/


 これは日記の第1日めで、活字本ではこれに続けて「日記は全く無意味である。」とあって、この日は終わっている。さすがに初日だけあって万年筆の黒インキで丁寧に書かれている。活字本は新字現代仮名遣いに改めた他に異同はない。しかるに15行の縦罫の上にある横長の子持枠の上欄、その右側、縦罫の2〜4行めの上に

―讀書―
十返舍一九
 「東海道膝栗毛」
アダムス・ベック
 「東洋哲學物語」

とあるのは、活字本では「二十五日」条の最後に「 ○アダムス・ベック『東洋哲学夜話』を読む。」と添えてあるが、何故か『東海道中膝栗毛』はこの日からは省かれており、翌「二十六日」条の最後に「 ○十返舎一九東海道中膝栗毛』を読む。」と見えている。Adams Beckは女性で本名はElizabeth Louisa Moresby(1862〜1931.1.3)、その著“The Story of Oriental Philosophy”の翻訳かと思われるが、昭和5年(1930)アルス刊の永野芳夫 訳『東洋哲学物語』上・下巻と、昭和17年(1942)第一書房刊の陶山務 訳『東洋哲学夜話』はともに国会図書館デジタルコレクションに収録されているものの「国立国会図書館内限定」公開のため、確認出来ていないが、活字本の通り後者であろうか。なお、同じ著者の翻訳には他に昭和9年(1934)アルス刊の永野芳夫 訳『東洋哲学史話』がある。
 58頁上段中の図版は、同じレイアウトの頁に、左右6行ずつ空白で中央の3行に、

『日記は子供の遊戲ではない。自分自身との對話である。
 誰の心にも生きてゐる、眞に神聖な自我との對話で
 ある』            ――トルストイ――

とある。上欄も空白。これは活字本『戦中派虫けら日記』には取られていないようだ。題辞に使えば良いのだろうけれども。なお、キャプションは「トルストイの言葉が書き留められている。1942(昭和17)年に/はトルストイの『人生読本』を読んでいる。」とある。活字本を見るに「二十七日」条及び「二十八日」条の最後に「 ○トルストイ『人生読本』を読む。」とある。(以下続稿)