瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅沼良次『流人の島』(5)

 昨日の続きで[八丈島名所案内]の「大賀郷地区」の改訂七版以後、改訂十七版までに増補された部分について見て置こう。
・「12 八丈島空港(一七〇頁参照)」改訂十七版206頁3行め
 本文(3行)を引用してみよう。206頁7〜9行め、

 旧海軍用飛行場を戦後民間空港としたものである。現在の空港建物は昭和三十七年三月竣工/同年五月一日都営第三種空港として供用を開始した。一ケ月平均一〇五機。離来島者五、八四/二人。


 空港の記述は改訂七版の170頁にも既にあるのだが、その前後にかなりの書き換えがある。すなわち、167〜184頁「観光の島」の章の2節め「東京から一時間のコース」の節がそれに当るのだが、7字下げゴシック体の見出しが改訂七版では170頁2行めにあったが改訂十七版では3行めにある。これは1節め、167頁2行め〜「東洋のハワイ・八丈島」の、169頁10行めまでは一致するが、11行めからが書き換えられているためである。なお、169頁の字数が少ないのは上部に写真が挿入されているからである。
 改訂七版、169頁11行め〜170頁1行め、

 ハワイのフラダンスも有名だ。フラフラ踊りのエロ感/が呼物である。八丈にはこれとは対照的な民族の郷愁を/そそる樫立踊りが、すでに有力な観光資源となっている。/ハワイと気候的・地域的に似ており、同じ火山島で熱帯/植物の産地として知られ、観光資源に富む八丈島は、太【169 】平洋の楽園“日本のハワイ”として発展することは夢ではないであろう。


 改訂十七版、169頁11行め〜170頁2行め、

 ハワイのフラダンスも有名だ。ハワイ婦人のしりふり/踊りであるが、八丈にはこれとは対照的な民族の郷愁*1を/そそる樫立踊りが、すでに有力な観光資源となっている。
 ハワイ諸島の中で、ハワイ島に次いで二番目に大きい/マウイ島と、八丈島との姉妹都市提携の話しが、両島間【169 】ですすめられ、昭和三十九年二月七日正式に両島の提携が宣言された。
 ここに相似した両島が結ばれて、東洋のハワイ八丈島の価値をさらに高めることになった。


 そして「東京から一時間のコース」になるのであるが、170頁は改訂七版は14行めまで、改訂十七版は15行めまで、見出しは通常2行取りであるが、改訂十七版は若干狭くして、無理に15行収めているのである。
 「東京から一時間のコース」の本文は、171頁13行めまで一致。171頁14行めからが書き換えられている。
 改訂七版、171頁14行め〜172頁15行め、

 三十一年八月二十七日、日本遊覧航空株式会社(現藤田航空が第一便として毎週二回(現在は毎日四往復)の定期航空を開始、利用者は日毎に増し、半月前から申込まなければ乗れないほ【171 】どになってきた。藤田航空株式会社は近く「全日空」と合併し、この航路はますます充実する/ことになるだろう。
 羽田を飛びたち御神火の大島を眼下にして、太平洋の青海原に点在する、美しい伊豆の島か/げをぬい、一時間の快適な空の旅で、日本のハワイ八丈島に着き、南国情緒を味わうことが出/来るのは、都塵*2に明け暮れる人々にとっては最高の慰安になる。しかしそれには料金の問題が/ある。一人片道四千六百円では、ちょっと庶民的ではない。飛行機はいいけれど、料金がなん/とか安くならないものかという声があるのは、無理もない話である。
 八丈空港は、三ヵ年計画、国費一億三千万円の予算で大整備を行うことになり、その起工式/が三十三年十二月二十一日に行われた。この飛行機は、ローカル線専用の第三種。計画は総面/積九万坪で、幅三十メートル、長さ千二百メートルの滑走路に、管制塔が新設され、いずれ夜/間の離着陸もできるようになり、いままでのたんなる離着場とは雲泥の差。これで最大、フォ/ツカー・フレンドシップ双発、四十四人乗りの大型機が発着でき旅客の大量輸送によって、現/在の運賃、片道四千六百円が三千五百円くらいに落着くようになれば、これならば気分転換に/日本のハワイへ、ちょっと行ってこようという都人士*3も多くなり、八丈空路はにぎやかになる/ことであろう。


 改訂十七版、171頁14行め〜172頁12行め、

 三十一年八月二十七日、日本遊覧航空株式会社(青木航空が名称をかえて再開した)が第一便と/して毎週二回の定期航空を開始、四十六年に日本遊覧航空は藤田航空と改名し、三十八年には【171全日空と合併した。空路の利用者は年毎に増し、昭和四十年に空路の来島者は三万五千人をこ/え、四十二年には全日空の八丈路線は利用率全国一位になった。
 四十四年四月、全日空は八丈空路の過密ダイヤを緩和する対策として、これまで使用してき/たフレンドシップ機と、六十人乗りの大型機YS機を定期便として就航させることになり、フ/レンドシップ機は毎日四便、YS機は三便の計七便をとばせることにした。
 八丈空港は、緑の東山、西山の中間を縦断する滑走路、幅三十メートル、長さ千二百メート/ル、オーバラン百二十メートル(都営第三種)、管制塔を設置した鉄筋コンクリートブロック/(二百七十二・五平方メートル)のターミナルビルをもつ近代的空港である。
 羽田空港を飛びたち御神火の大島を眼下にして、太平洋の青海原に点在する、美しい伊豆の/島かげをぬい、一時間の快適な空の旅で、日本のハワイ八丈島に着き、緑の熱帯植物におおわ/れた夢の島で、清新な空気を吸い、ひとときの憩の場所として、南国情緒を味わうことが出来/るのは、都塵*4に明け暮れる人々にとって最適のレジャーといえるだろう。


 日本遊覧航空が藤田航空に改名したのは昭和36年(1961)、昭和38年(1963)8月17日には墜落事故(死者19名)も起こっている。なお、本書は10月13日付(2)に引いた改訂七版の奥付にある通り、改訂四版から増刷の頻度が高くなっているが、港や空港の売店で観光客向けに販売されていたのであろう。
・「13 東京都八丈島植物公園」改訂十七版206頁7行め 4行
・「14 南原海岸の千畳熔岩」改訂十七版207頁1行め 3行
・「15 八丈島国際観光ホテル」改訂十七版207頁5行め 5行
 10月14日付(3)に引いた改訂七版の「付記」に見えるホテル・ローヤル及び八丈温泉ホテルと同様に、このホテルも現在廃墟と化している。これは全文を引用して見よう。

 オリンピック東京大会の代々木選手村の男子食堂であった「富士」をそのまま八丈島に移し/「国際観光ホテル」として、昭和四十年七月、南原海岸の景勝地に建設したものであり、オリ/ンピックの施設の復元と平安朝の古典建築を近代的にアレンヂしたホテルである。
 客室は二十室、収容人員は百名、世界民芸展示室、室内熱帯植物園、オリンピック東京大会/で活躍した有名選手の記録写真が展示されている。


 このホテルが挙がっていないところからして改訂七版にある「付記」は、昭和40年(1965)8月の改訂三版にて追加されたのであろう*5。(以下続稿)

*1:ルビ「きようしゆう」。

*2:ルビ「とじん」。

*3:ルビ「とじんし」。

*4:ルビ「とじん」。

*5:215頁の裏(奥付の前)は白紙なので、そこを使えばさらに追記することも出来たはずだが、そこまではしていない。