瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田辺貞之助『うろか船』(10)

 12月13日付(06)に細目を示した7章め「ラジオ歳時記」に、後年詳しく述べることになる、故郷の思い出を語っているのであるが、まづ昭和32年(1957)2月24日(日)放送の、仮に【】とした話題を、直前の【】の2段落めから引いて見よう。203頁2〜16行め、

 こういう晩、どんよりくもって、いまにも雪がちらつきそうな空のしたに、どすぐろく見える/向うの森かげの部落から、よく砂村ばやしが聞えてきました。砂村ばやしは当時としては若衆の/唯一の芸術で、農閑期には、毎晩鉄っあん*1という笛の名人のところへあつまって、けいこをして/いたのですが、広い田ん圃にしやがんで、そのねむたげな調子を遠くきいていると、まるで田ん/圃のまわりをキツネの親子がうろついているような肌さむさを感じるのでした。
        ……………………………
 私の村から深川の不動様へ行く道を長手と申しました。ちょうど材木問屋で有名な木場のうら/を東から西へ走っている田ん圃道でした。その長手のそばに、六地蔵とか隠坊堀とかの名所があ/りました。六地蔵は姐己*2のお百という毒婦に殺された男たちの霊をなぐさめるために建てたもの/ですし、隠坊堀は四谷怪談のお岩の死体が戸板にしばられて流れついたところです。ですから、/長手という道は昼間でも薄気味のわるい道でしたが、初不動の帰りなど、夜おそくなって、おや/じの肩車で帰ってきますと、遠い野づらでボーボーと火がもえていました。それがきつね火だと/きいて、私はおやじの頭にしがみついてしまったのでした。昔はどうしてあんなにきつねをこわ/がったのでしょう。化けるということから、そうなったのでしょうが、もう少しユーモラスにこ/しらえてくれた方が楽しかったろうと思います。


 朗読原稿からは窺えないが、この放送には砂村囃子が流れていたようだ。すなわち、1章め「頭のなかの空地」の9節め「魂にふれる音楽」の最後に、この「ラジオ歳時記の放送」に触れている。36頁12行め〜37頁4行め、

 これは邦楽という言葉で呼ぶこともできないしろものでしょうが、先日N・H・Kのラジオ歳/時記の放送をしたとき、郷里のおはやし連中を放送局へ呼んで、やってもらいました。いわゆる/バカばやしで、大太鼓一、小太鼓二、笛と鐘という素朴な合奏ですが、やる人はみんな小さいと/きの友達で、笛をふいた人は死んだ母親の幼友達で八十以上の老人でした。
 ああいう土俗的な音楽をきいていると、幼い日のいろいろの思い出が、昔の小川の魚取りや晩【36】秋の野面のどじょう取りや、はては狐火のおそろしさまで心にうかんできて、泣きたいような切/なさを覚えます。やっぱり、音楽にしろ、文学にしろ、血のつながりと申しましょうか、民族の/歴史に根ざしたものがなければ、ひとつの曲、一行の文字でも、その底に流れるものを魂で感じ/とることができないのでしょうか。(雑誌P・H・P)*3


 この「八十以上の老人」が「鉄つぁんという笛の名人」なのではないか、と考えて見るのだが、可能性はあるが確証はない。
 それはともかく、この「長手」で見た「きつね火」については、晩年刊行された『江東昔ばなし』にも記述がある。11月30日付「人力車の後押しをする幽霊(6)」に前置き(上製本8頁9〜12行め)を引いたので、今回は本題(上製本8頁13〜18行め)を抜いて置こう。

 あの道は今は拡張して二車線になり、歩道もついているが、当時は幅三メートルあるかなしかの/田舎道だった。真暗な夜で、街灯なんかまだなく、非常に淋しかった。しかも、遠い野面のあちこ/ちで火がぼうぼう炎をあげて燃えていた。「あれはなんの火?」ときくと、だいぶ酔っていた父が/「狐火というものさ」と答えた。私はこわくなって、父の顔にかじりついて目をつぶった。今考え/ると百姓が田圃のゴミを燃やしていたのだろうが、それ以来、私は長手と聞くとすぐにあの狐火を/思い出した。


 『江東昔ばなし』では「納めの不動さま」すなわち12月28日のこととなっているのだが、本書では「初不動」すなわち1月28日となっている。どちらが正しいかはともかく、田辺氏はそのときの感覚で、細部には拘泥らずに書いているらしいのである。(以下続稿)

*1:発音しづらい。「てっつぁん」の誤植及び校正漏れであろう。」

*2:ルビ「だつき」。「妲己」が正しい。

*3:「昔の小川の魚取り」は「春の小川の魚取り」ではないか、と思えて来たが、既に返却してしまって俄に確認出来ないので、しばらくそのままにして、疑問のあることのみ指摘して置く。