瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(4)

 昨日まで、他人の著書の疑問点を論って来ましたが、私がこうした作業を重視する理由については2015年10月18日付「試行錯誤と訂正」等に述べた通りです。
 もし、本にでもする機会があるなら、それこそ現地踏査もして、徹底的に調べ尽くすつもりですけれども(しかし、いよいよ経済的に割に合わない道楽にしかなりませんが)ブログは調査メモであって、思い込みや、準備不足・知識不足による誤謬を含んでいても、仕方がないと思っています。ただ、誤りに気付いたときは早急に訂正したいと思うのですが、その訂正記事を挙げるのも労力を要します。かつ、他の調べが進んでいるときなど、そちらを済ませてからと思っているうちに、借りていた資料の返却期限が来てしまったりして、ついつい遅くなってしまうのです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 2016年10月3日付(3)に続いて、阿知波五郎「墓」の復刻がこの話が広まるきっかけになったのではないか、と云う仮説を立てて、2016年10月4日付「阿知波五郎「墓」(1)」及び2016年11月2日付「阿知波五郎「墓」(9)」にて、その可能性を追求して見ました。
 しかしながら、結論を先に云うと、これは誤りでした。閉じ込められた女子学生の話は楢木重太郎(阿知波五郎)の短篇小説 「墓」が昭和26年(1951)12月刊の初出誌以来41年振りに平成4年(1992)9月刊の『こんな探偵小説が読みたい』に再録される、その以前から流布していたのです。もちろん、時期的に「墓」に淵源する可能性は否定されませんが、私の引いてみた流布の筋道は否定せざるを得なくなりました。
 私はこの手の話を、2014年9月30日付「「ヒカルさん」の絵(01)」及び2016年9月27日付「「ヒカルさん」の絵(06)」に述べたように、例の「奇跡体験!アンビリバボー」で初めて知りました。尤も、倉庫から出られなくなった男子生徒が死んだと云う話は、昭和62年(1987)高校1年生のときに級友の1人から、出身中学の体育館に伝わる話だとして聞いたことがあります。いるのに気付かず、鍵まで締めちゃってん、と云うのですが、単に夕方、存在に気付かれずに閉じ込められた、と云った単純な話ではないので、詳細は、過去の私の「学校の怪談」調査について触れるときに述べることにしましょう。――とにかく、私は少し似たようなところのある話を聞いたことがあるくらいで、女子学生が夏休みの間閉じ込められて干からびていた、みたいな話を聞いたことがありませんでした。
 ところが地方によっては既に、私の高校時代よりももっと前に、この手の話が行われていたようなのです。
 その紹介をする前に、まづ資料の性質について述べる必要がありますが、それは別に記事にする予定*1なので、今は、松山ひろし『真夜中の都市伝説』シリーズからこの話に関する記述を抜いて置きましょう。シリーズ1冊めの『3本足のリカちゃん人形』、書影は2016年12月18日付「松山ひろし『真夜中の都市伝説』(1)」に、細目は2016年12月28日付「松山ひろし『真夜中の都市伝説』(2)」に示しました。
 110〜113頁「第29夜 爪の跡」がそれで、110〜111頁に本文、112頁は児嶋都のイラストで、床に倒れる三つ編み・セーラー服の少女の死体、壁や床に出血した指先で引っ掻いた血の跡。脇に跳び箱とバレーボール。跳び箱の向こうに新学期になって開いた扉。扉は汚れていない。113頁に「解説」。まづ前半を見て置きましょう。1字めはドロップキャップ(2行×3字分)。

れは全国の学校に分布する都市伝説です。もし、自分が同じように閉じ込められて/しまったら……。そう考えると、非常に恐ろしい話です。最後の望みをつないだ抵/抗すらも無駄であったことを示す、多くの類話で登場する「はがれた爪」や「ボロボロに/なった指」というモチーフ。そしてなにより、こんな状況で理不尽な死を迎えねばならな/い怖さ。こういった誰もが共感できる恐怖があるからこそ、この物語は広く語り伝えられ/ているのでしょう。


 既に見たように図書館、暗室などのヴァリエーションがあるのですが、松山氏が本文で採用した設定は「とある高校」の「体育館の地下」の「用具置き場」となっています。そして「学校の用務員」が「気づかず」に「地下室の入り口の鍵を外から閉めてしま」うのです。
 「一学期」の「終業式の終了後」、なんで「ある少女」がそんな場所にいた理由は「誰かに片づけものを頼まれたのか、或いはなにか用があったかで」とボカしてあります。もし、教師が用事を頼んでいたのだとすれば、さすがに思い当たりそうなものです。
 これまでに見た類話には、女子学生の家族がどうしたのか、全く触れていませんでしたが、松山氏の本文では「学校に問い合わせ」るが「とっくに帰ったはずだという返事しかもらえ」ず、「ついには警察に捜索願」を提出します。しかし、見付けられない。……「両親」がこのように動いたのは当然として、ちょっと学校と警察の対応が酷いと思う。――まともに取り合うべきところではない? だとしたら家族の動きを語ること自体が蛇足かも知れません。
 夏休みに体育館で部活動しない高校があるとは思えないのですが、ここは「地下」と云うのが味噌で、普段の部活動で使うものはもっと取り出しやすいところに置いてあって、滅多に使わないものが地下にあった、だから夏休み中気付かれなかった、と云う理屈になるのでしょう。そして「始業式の日」に同じものを取り出す必要があって、「終業式」以来初めて開けた、と。しかし「涼しい地下にいたためか」腐敗せずに「ミイラ化していた」と云うのは、どれだけ涼しい地下なんでしょう。
 やはりこの話、辻褄を合わせて行こうとすればするほど、無理が生ずるもののようです。やはり高校生だとすると、夏休みの間中気付かずに済ませるのはちょっと厳しい気がします。平成初年の大学生であれば、携帯電話も普及していませんでしたから、長期休暇中に見かけず、連絡が付かなくても、帰省しているのだろう(実家からすると帰省せずに勉強しているのだろう、と――女子学生の親としては呑気ですが)、で済まされなくもないでしょうが、……。そのためには、閉じ込められた場所にいた理由も誰にも知られていなかったことになっていないといけないので、とにかく何だかよく分からないうちに、盲点に嵌り込んでしまったと云う展開になるのですが、もともと無理な話なので如何にも苦しい。その上で、捜索願などの別のディテールを増強するとなると、この曖昧に止めねばならない部分と、当然なされるはずの周囲の合理的行動の追加による乖離が、いよいよ甚だしいものとなってしまいます。
 ですから、松山氏は「誰もが共感できる恐怖」と述べていますが、こんなことが本当に起こり得るのだろうか、と、まづ考えてしまう性質の私には、常識的に考えて、――閉じ込められることはあっても 高校生なら家族も捜すことだろうし翌日には見付かるだろう、と思ってしまうので、リアリティを感じません。従って恐怖も覚えません。そりゃ、真っ暗な地下は怖いでしょうけど、誰かが来るまでじっとしていて、人の気配を感じたとき初めて扉を叩けば良いのです。壁に爪を立てると云うのは痛いだけで、思考力が鈍るくらい追い詰められたらそんな行動に出るのかも知れませんが、それまでに見付かるはずなのです。それでも見付けられないとしたら、そこには別の理由――例えば、級友が似た人物を駅で目撃して、本人だと思って知らせて来たとしたら、全く別の方角を捜すことになるでしょう。しかも、男性が一緒にいたとか云うことになったら、学校は全くの盲点になります。しかし、そこまで理詰めで考えていくと、ごてごてしてしまって、うかうかと本当のことのように聞かされてしまうこの話の魅力を損なうでしょう。あまり、細かいところには触れずに面白がるべき話なのです。人が死んだ話を面白がると云うのは変ですが、多分こんな死に方をした人は学校ではごくごく稀にしかいないはずなのですから。
 松山氏の「解説」の後半、

 なお、この話には後日談として、「それ以来、地下室からは夜になると扉を引っ掻くよ/うな音が聞こえる」といった怪異が語られたり、あるいは怪談のほうがメインで、この話/は前ふりとして語られるだけといった類話も存在します。日本人の感覚でいえば、彼女/のように「無念」を残して死んだものは「幽霊」として再生するのが自然な流れなのでし/ょう。


 私としては「爪のあと」だけに止めず、ここまで欲しいところです。この後段があることで、事故の不合理さが一層目立たなくなりますから。(以下続稿)

*1:2020年9月21日追記2020年7月3日付(21)以降。特にその最後、2020年7月10日付(28)に考証したように、昭和58年(1983)には存在していた。