瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小池壮彦『怪談 FINAL EDITION』(19)

・第十七話孤独死(9)
 2月9日付(17)に述べた、場所の問題に話を戻す。
 小池氏がこの話の現場として印象付けようとしている(ように読めてしまう)場所は、方角が違っている。
 2月2日付(11)には一部引用したのみであった冒頭、本書53頁2〜6行めを抜いて置こう。

 東武東上線北池袋駅といえば、池袋の隣の駅である。昔は堀之内村といい、戦前までその地/名が残っていた。駅名も東武堀之内駅だったが、戦後に北池袋と改められた。いまでも閑静なエ/リアであるが、昔はもっと寂しい場所だった。
 改札口を出て、右手の踏切を渡り、少し歩くと道路をはさんで左手に公園が見えてくる。右手/には交番があり、隣接して小さなお堂が建っている。


 ここにはかなりの誤りがあるようだ。Wikipedia豊島区の町名」項、「北区の町名(東京都)」項、「北池袋駅」項、等を参照するに、単に「堀之内村」と称したことはなく「新田堀之内村」であった。現在の東京都北区にあった「梶原堀之内村」から分かれた新田村落なので「新田堀之内村」を称したのである*1。ちなみに「(梶原)堀之内村」は現在の北区堀船1〜3丁目で、東京府北豊島郡王子町大字堀之内*2が、東京市編入されるに際し、東隣の大字船方(現在の堀船4丁目)と合わせて、それぞれの頭文字を取って王子區堀船町となったのである。都電荒川線梶原停留所、梶原銀座商店街などにその名を止めている。
 新田堀之内村は池袋村などとともに明治22年(1889)の町村制施行で東京府北豊島郡巣鴨村となり、大正7年(1918)に町制施行に際し西巣鴨町の大字となったが、町制施行の直前に大字新田堀之内は大字堀之内に改称されている。
 小池氏は堀之内の地名が存していたのは「戦前まで」のように書いている。堀之内町の北西端に位置していた東武堀之内駅は、昭和20年(1945)4月13日の空襲で焼失したために廃止され、昭和26年(1951)9月に復活するに際して北池袋駅に改称されたから駅名としては「戦前まで」であるが、町名の方は昭和7年(1932)10月に東京市編入されて「豐島區堀之内町」となって以来、昭和45年(1970)1月1日に住居表示が実施されて「豊島区上池袋」となるまで「豊島区堀之内町」のままであった。なお「上池袋」の範囲は「堀之内町」に比して東と北に膨脹しており、住居表示以前の「堀之内町」の範囲は、現在の「上池袋」の2丁目・3丁目の辺りである*3。今は明治通りが山手線を跨ぐ堀之内橋、赤羽線埼京線)堀之内踏切*4にその名を止めている。
 ちなみに住居表示以前の地図は2011年8月19日付「駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(11)」に挙げた、梅田厚 ガイド文/人文社編集部 企画・編集『古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩(古地図ライブラリー別冊)*5』(2004年1月第1刷発行・2004年3月第2刷発行・定価2,600円・人文社・152+8頁)の他に、
人文社編集部 企画・編集『古地図・現代図で歩く 昭和30年代東京散歩(古地図ライブラリー別冊)』(2004年8月第1版第1刷発行・定価2,400円・128頁)

及び、埼玉大学教育学部(人文地理学研究室)谷謙二准教授の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」を参照した。
 北池袋駅の「改札口を出て、右手の踏切」と云うのは東武東上線の東第3号踏切と赤羽線埼京線)第一雲雀ヶ谷踏切で連続している。少し坂を登ってそのまま東南東に進むと「上池袋交番前」の信号近く、交番の手前の廃屋が1軒建つ狭いブロックの西角に、北を向いて石地蔵の小祠がある。これが「お茶あがれ地蔵」である。この辺りは昔の「堀之内町」の北端に当たる。私は以前、年に数回この信号を南北に渡る用事があったので、この地蔵に手を合わせたこともあるのだが、北池袋駅から行ったことはない*6
 なお、東上線の西側の地域は豊島郡池袋村の字「本村」で、今は豊島区池袋本町を称している。
 それはともかく、小池氏の書き方だと、旧「堀之内町」、東上線の東側、堀之内橋の北、明治通りの北西側の狭い範囲の地域を指しているように読める。
 白骨遺体の見付かったアパートがあったのは池袋4丁目だが、旧「堀之内町」とは全く方角が違う。北池袋駅の「改札口を出て」踏切を渡らずに西南西の方角である。かつ、確かに直線距離で一番近い駅は北池袋駅であろうが、利便性からしても、歩く距離は長くなっても普通、池袋駅を利用すると思う。『異界の扉』24頁8〜9行めに「現場に案内してもらった。/北池袋からしばらく歩いたところに、なるほど古いアパートがあった。」とあるが、北池袋駅からだと上部を首都高速5号池袋線に覆われた川越街道を渡らねばならず、距離感は実際の距離以上にあると思う。かつ、水野やよい(及び小池氏)がどこに住んでいるのか知らないが、R大学の学生とわざわざ北池袋駅で落ち合って、池袋4丁目に行くと云うのも奇妙である。だから本書では案内された件を削除したのであろうが、――場所をボカすためにわざとこんな風に書いたのであろうか?
 実は私は、このアパートが解体される少し前、小池氏が水野氏にこのアパートに案内された(?)頃に、短期間ながらこの辺りで仕事をしていて*7、やっぱり池袋駅から通っていたのだった。そのまま続けていたら、白骨遺体発見の噂くらいは聞いていたかも知れない。
 水野氏はお茶あがれ地蔵の近所に住んでいるのであろうか。R大学の学生が池袋4丁目に住んでいると云うのは、大学まで池袋駅よりも近いくらいだから自然な選択である。上池袋だとR大学まで、東上線埼京線赤羽線)の開かずの踏切もあり、わざわざ東上線を1駅だけ乗るのも勿体ないし、敢えて探さないだろうと思う。
 それはともかく、小池氏が旧「堀之内町」のお茶あがれ地蔵と池袋4丁目のアパートを「北池袋」の名の下に結び付けたのは、地域の来歴を無視した住居表示にも似た、少々強引に過ぎる括り方のように思えてならないのである。(以下続稿)

*1:附近に「梶原堀之内村」の飛び地もあって、そこは「堀之内村」として文献にも出て来るが、飽くまでも飛び地である。現在のどの辺りになるのかは未確認。

*2:2021年4月4日追記】何故か「王子王子」となっていたのを修正。

*3:細部にはかなりの出入りがある。

*4:東武東上線北池袋駅の南側・東第2号踏切と連続している。この踏切も何度か渡ったことがある。冬の夜、西側の柵に腰掛けて、埼京線東上線が何本も通過するのを眺め、北池袋駅に停車する各駅停車を見上げつつ、のんびり待ったこともあった。――2015年9月12日付「山本禾太郎『小笛事件』(5)」にも書いたように、車窓を見上げながらあの人たちはこれからどこまで行くのか知らんと思いを馳せ、そして遮断機が上がるや颯爽(?)と一番乗りで渡るのが好きなのである。

*5:書名は奥付に拠った。発行年月は今回参照した本に拠る。

*6:北池袋駅で乗降したこともなく、東第3号踏切・第一雲雀ヶ谷踏切も渡ったことがない。

*7:2月12日追記】これは勘違いで、私がこの辺りに来ていたのはその1年前、平成15年(2003)の暮れではなく平成14年(2002)の秋から平成15年の春先までであった。