瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(157)

 昨日の続きで、松山ひろし『壁女 真夜中の都市伝説の「第46夜 怪人赤マント」について、146頁「解説」を見て置きましょう。まづ血痕のように黒くしたところにゴシック体白抜きで「解説」とあり、その下から、つまり少し下がった位置から黒のゴシック体で解説本文になります。1字めはドロップキャップ(2行×3字分)。

前の赤マントといえば、先に紹介した「赤いちゃんちゃんこ」の類話ではなく、こ/ちらの怪人赤マントのほうが主流でした。怪人赤マントの中にはトイレに出没する/といわれているものもいましたので、そこで「赤い紙、青い紙」と結びついて先の「赤い/マント、蒼いマント」の話が生まれ、現在の「赤いちゃんちゃんこ」へと繋がっていった/可能性もあります。
 怪人赤マントの噂が最初に東京に現れたのは、二二六事件の起きた昭和十一年ごろのこ/とです。二二六事件とは陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件であり、首相官邸や警/視庁などが反乱軍によって襲撃され、当時の大蔵大臣や内大臣などの閣僚が殺害されまし/た。
 赤マントに対して軍隊や警察が出動したというあたりの噂は、二二六事件当時の戒厳令/下の東京を思わせ興味深いところです。あるいは、赤マントの噂の成立には、マントを羽/織った当時の青年将校たちの姿が影響を与えているのかもしれません。


 この、二・二六事件に赤マントを絡める説は、朝倉喬司が唱え始めたもののようです。2013年10月19日付(1)に紹介した『ヤクザ・風俗・都市――日本近代の暗流に収録されている論考で、初出誌の別冊宝島268「怖い話の本」は2013年8月8日付「別冊宝島268「怖い話の本」(1)」に指摘したように、その後『伝染る「怖い話」』と改題して宝島社文庫に収録され、さらに「伝染る都市伝説」と改題して別冊宝島スペシャルにて再刊されました。内容について、別冊宝島スペシャルでの改題、また割愛を中心に細目を示しましたが、朝倉氏の論考については2013年9月12日付「別冊宝島268「怖い話の本」(3)」に触れました。
 松山氏が参照したのは1月6日付「松山ひろし『真夜中の都市伝説』(4)に見たように宝島社文庫版です。別冊宝島268「怖い話の本」を取り上げていた際に示すことの出来なかった書影も貼付して置きました。今、確かめて見ると別冊宝島別冊宝島スペシャルも書影を示すことが出来るようになっているので、ついでにここに貼付して置きます。

 さて、朝倉氏が昭和11年(1936)頃と判断した根拠となった資料と、朝倉氏の赤マント発生に関する見解は2013年10月24日付(3)に引きましたが、そこでも考証した通り、根拠となった資料に誤りがあるのです。次いで朝倉氏は2013年10月25日付(4)に引いたように加太こうじ『紙芝居昭和史』が赤マントを昭和15年(1940)のことと記述しているのを批判しますが、加太氏は1年記憶違いしていて実際には昭和14年(1939)のことなのです。この当たりの細かい事情をここで改めて追うのは大変なので、参考までに大雑把に纏めた2014年7月11日付(139)を挙げて置きます(後半)。さらに2013年10月26日付(5)に引いたように北杜夫『楡家の人びと』を挙げるのですが、北氏が正しく昭和13年度、つまり昭和13、14年のこととして記述している赤マントのことを「昭和十二、三年の出来事に擬されている」と、微妙に前にズラして言及します。――当時の私は、こうした時期の問題に関心があって、時期について朝倉説を論破したことで満足して二・二六事件との関連には全く触れなかったのですが、松山氏の記述を見て、もう少々朝倉氏の説に突っ込んで置く必要があると思ったのです。――もう3年くらい前のことで、しかも量が多いので自分が書いたことながら結構忘れています。しかししっかり調べたつもりなので、本か、それが無理ならもう今更書きたくないんだけれども他に仕方がないから学術論文として書こうと思っていて、そのためにはそろそろ過去の記事を復習して、それから、存在を知っていながらまだ見ていない資料も押さえて置かないといけませんから。(以下続稿)