瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「国文学」2誌(1)

 ここ数日、なかなか新稿を準備する余裕がないので、それなりに形になっているものを投稿して済ませているが、これもやはり1年前――2016年4月25日に執筆したものである。
 院生だった頃には私の周囲にも、両誌に執筆したことのある人や、「解釈と教材の研究」の特集の責任編集を担当した教授などもいた。しかし私は執筆の機会がなかったので、具体的な話は全く承知していないのである。以下の記事に言及した“B教授”の、いわば身内に当たる院生も何人か知っていたし、その後の職場では“A教授”の勤務校の卒業生で、A教授が担当した特集号に、専門でもない作品や作家について毎回執筆し「勉強させていただいた」との謝辞を述べている人と働くことになった。しかしそれ以上に知っている訳ではない。
 それだのに分かっているような風に書いてしまったので、投稿を躊躇したのだが、それこそ「今更」新たにこういうことを書く意欲もないので、整わない箇所に手を加えて投稿することにした。

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・「国文学 解釈と鑑賞」至文堂
・「国文学 解釈と教材の研究」學燈社
 休刊――事実上の廃刊になったことが、国文学関係者の間では衝撃を以て語られていた、ように思うが、私などは、ちょっと空々しい気にさせられたものだ。
 原節子が死んだときに、惜しんでいる人がいたけれども、私には何が惜しいのかさっぱり分からなかった。もう完全に引退しているのである。今更活躍する姿が見られなくなる、と云う訳でもない。
 同じことは桂米朝が死んだときにも感じた。既に高座から遠ざかり、ラジオ番組で昔の記憶を語るような活動も終えていた。今後、或いは何かの拍子に埋もれていた記憶を甦らせることも、なきにしも非ずだけれども、既に書き尽くし、語り尽くしている。ただただ冥福を祈るばかりで、今更何を惜しむのか、と思ったのである*1
 それはともかくとして、――それぞれ、毎号特集を組んでいて、私の専門はまるでメジャーではないので(マイナーな国文学界の中でさらにマイナーだなんて……我ながら泣けてくる)私が学部生・院生であった時期に特集された記憶がないが、それでも関連するジャンルが特集されていれば手に取って眺めたものだった。
 しかしそのうち、この雑誌は何だかおかしい、と思うようになったのである。特に「解釈と鑑賞」の方だ。
 明らかに、その道の専門でない人間が、執筆しているのである。
 要するに、近代文学ならA教授、古典文学ならB教授、という風に1人の先生が請け負って、弟子に割り振って書かせ、専任や非常勤をやっている連中には論考を書かせ、そして院生など下っ端に「研究文献目録」のような、私の院生時代であればネットではなく図書館の館内の端末(OPAC)と云うことになるけれども、そんな誰でも出来るようなものをやらせていたのである。
 私はこれに、大いに憤慨した。いや、当初は、――この主題であればC氏、あの主題はD氏、と云うようにもっと適任の、最近優れた論考を発表した人がいるのに、誰だか知らないけど、どうもその道の専門でもない人たちによる、内容も何とも中途半端で、正直なところ大して役にも立たない、恰好だけは論考ぶった文章を並べているのだか、理由が良く分からなかった。文献目録も同じ専門外でも私の方が上手く作れそうなレベルで、同じ院生でもちゃんとこの作品を修士論文のテーマとして読み込んだ人がいくらもいるだろうに、何でこんな、この作品について殆ど何も知らない、本当に端末を叩いて出て来た単行本や紀要論文を適当に並べたに過ぎないような体たらくのものを載せているのだろう、と不思議でならなかったのである。目録にしてもきちんと自分の研究テーマとしてやっている人であればもっとまともな、血の通ったものが作れるはずなのであって、正直、目録作成を舐めている、と思ったものだった。
 そんな例をいくつも見せられるうちに、愚鈍な私でも流石にA教授やB教授の存在に気付き、そして、こういった方々が学界を見渡して意欲溢れる新鋭に、将来も見据えた最先端の研究成果や研究動向を執筆依頼するのではなく、弟子たちに適当に割り振って「特集」論考を書かせているに過ぎないことに、否応なく気付かされることとなったのである。
 そうなってしまったのには、それなりの理由があったのだろう。しかし、その作品・作家を知り尽くした研究者や、新たに開拓しつつある若手が、枚数も少な目で表現や用語も平易にしないといけない商業誌に、自分の到達し得たエッセンスを書く、と云うのではなく、初めから少な目で平易にしか書けないことを承知で、弟子にボスとして仕事を斡旋してやる、と云う風にして書かれた諸篇に、文学の魅力が十分に語れるであろうか。
 もちろん、担当者はそれなりに力を尽くしたのだろうし、月刊誌を回して行くための制約も、あったのであろうが。
 しかし、バックナンバーを繰ると、昭和50年代まではそんな風ではないように感じられた。いつしか、A教授ファミリーとかB教授ファミリーみたいなものが出来て、やっつけ仕事で済ませるような作りになってしまっていたのである。この辺りの堕落振りは、或いは今からでも検証する価値があるかも知れない。(以下続稿)

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 以上である。この記事ではA教授やB教授の関係者を知らない、と云うことにして書いたが、実は知っていたのである。特にB教授の身内については院生時代から知っていた。知人がB教授の身内から頼まれて、あまり専門と重ならない分野の執筆をすることになり(しかしこれは、なぜC氏やD氏に頼まないのか、といったような主題ではなく、B教授の身内の連中にも、書いて「勉強させていただこう」というような主題でもなかったので引き受け手がいなかったらしく、たった1回だけ、回って来たのであった)草稿の校閲をしたこともあった。しかしこうした構図について確証を得た(と思った)のは院生でなくなってほぼ斯界から足を洗って後、A教授の身内の存在を知ったことに拠る。
 それはともかく、関係者を知っていた関係で、A教授やB教授の担当した「解釈と鑑賞」は手にする機会があったから、ここに書いたことはそう間違ってはいないと思うが、この両教授ではない人が担当した特集号も同様だったのか、毎号手にして精読した訳ではないので、そこまでは分からない。両誌が廃刊された頃には既に斯界の人々との交際を絶っていたから、その頃のことも分からない。だからここに書いたことは、こういうことがあった程度に取って下さい。そして、関係者による、批判的かつ本格的な回想の出現を期待したいと思うのである。

*1:少し分かりにくいかも知れぬが、何が言いたいのかと云うと――「国文学」2誌の消滅を惜しむ以前に、国文学自体がある意味終わっていたのに、何を今更惜しがって見せるのか、と思ったのである。