瑣事加減

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夏目漱石『こゝろ』の文庫本(18)

集英社文庫『こころ』(4)
 2013年1月13日付(07)に触れた、カバー裏表紙右上の紹介文を比較して見よう。
 第30刷までは次のようであった*1

「私」は、鎌倉の海で出会った/「先生」の不思議な人柄に強く/惹かれ、関心を持つ。
「先生」が、恋人を得るため親/友を裏切り、自殺に追い込ん/だ過去は、その遺書によって/明らかにされてゆく。
近代知識人の苦悩を、透徹し/た文章で描いた著者の代表作。


 確かに、Kを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その直後にKが自殺するのだからここに書いてあるように解釈してしまう向きも、あったかと思うのだが、――いや、昭和の頃の解釈は2015年10月9日付(17)に引いた新潮文庫315『こころ』のカバーの紹介文のように、大体こんな感じだったようだ。
 しかし、Kは、お嬢さんに惚れてしまった時点で、すなわち「そのために今日迄生きて來たと云つても可い位*2」の「禁慾といふ意味‥‥よりもまだ嚴重な意味が含まれてゐる*3」と云う「精進*4」を続けられなって「道に達*5」する見込みがなくなった時点で「折角積み上げた過去*6」も何もかも、もうどうしようもなくなっていたのである。
 だからこそ古来、仏教説話などに過度とも思われる色慾に対する警告がなされて来た訳だのに、経験がないと、たまたま迷わされる程の異性に接していなかっただけなのに、自ら色慾を制御し得ているかのように勘違いしてしまう。2014年11月30日付「周防正行『シコふんじゃった。』(2)」にも述べたが、お嬢さんに惚れてしまう前のKは、異性には全く惑わされずに生きて行けるだろうと高を括っていたので、先生もKについて同じように思い込んでいたからうっかりお嬢さんにKに「親切に*7」接するよう頼んでしまったのである。しかし、一たび惚れてしまったら最後、江戸時代の俗謡にも恋愛に関連して「染めてくやしきにせ紫や、もとの白地がましじゃもの」と歌われているように、もとのまっさらな状態には、もう戻れない。もちろんお嬢さんと生きていくと云う選択は「平生の主張*8」と矛盾するし、先生もお嬢さんに惚れていたことを知ってしまった以上、それは出来兼ねる。いや、自己中心的で友人のことを全く考慮していなかった自分を反省しただろう。実家と養家と絶縁して自らを追い込んでまで求めた「道」に生きられない以上、もう死ぬしかないので、別に友人に裏切られたから自殺したとは思われないのである*9
 第31刷は未見。
 第32刷以降(小畑健のイラストレーション)は次のように変わっている*10

学生の私が尊敬する「先生」に/は、どこか暗い影があった。/自分も他人も信じられないと/語り、どんなに親しくなって/も心を開いてくれない。そし/て突然、私の元に「先生」から/遺書が届く。そこには、「先生」/から人生の全てを奪った事件/が切々と綴*11られていた、親友/と同じ人を好きになってしま/ったことから始まる、絶望的/な悲劇が――。人間の本質を/見据え、その真実の姿を描き/きった、漱石の最高傑作。


 Kは初めから無茶な目標を立てて若気の至りで自滅したようなものだし、お嬢さんとの結婚は落ち着くべきところに落ち着いたに過ぎぬのだから、Kの自殺を「人生の全てを奪」われる程、気に病むこともなかろうと思うのだが、そこに一部で云われている、Kとの同性愛的関係が指摘されるのかも知れない。――尤も私にはそのけがないし、身近な人に自殺された経験もないので、どうもそういった解釈には着いて行けないのである。(以下続稿)

*1:第30刷(吉野朔実の装画)に拠る。

*2:ルビ「こんにちまでい・き・い・い・くらゐ」

*3:ルビ「きんよく・いみ・げんぢゆう・いみ・ふく」。

*4:ルビ「しやうじん」。

*5:ルビ「みち・たつ」。

*6:ルビ「せつかく・つ・あ・くわこ」。

*7:ルビ「しんせつ」。

*8:ルビ「へいぜい・しゆちやう」。

*9:だから私は、むしろKの方が友人(先生)を裏切って暴走したのだ、と思われるのだ――意識せずに(無神経に)だけれども。その点への反省もあるので友人を責めずに「もつと早く死ぬべきだのに何故今迄生きてゐたのだらうといふ意味の文句」を遺書に書いたのだと思うのである。

*10:第46刷に拠る。

*11:ルビ「つづ」。