瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

消えた乗客(2)

・人力車、和気、大正初め
 2016年8月7日付(1)及び2016年8月31日付「タクシー幽霊(1)」の続き。
・立石憲利『風呂場ばなし 岡山県長船町の民話―2001年11月16日初版第1刷発行・定価1,429円・吉備人出版・161頁・四六判並製本

風呂場ばなし

風呂場ばなし

 見返しはやや厚い黄みがかったクリーム色のエンボスで、遊紙あり。同じエンボスで淡い黄色の扉は黒でカバー表紙と同じ文字を示す。カバーでは赤の短冊状に黒のゴシック体で副題が入っていたが、濃い灰色に白抜きゴシック体にしている。下部の模様はない。
 副題の「岡山県長船町」は、当時「岡山県邑久郡長船町」であったが、平成16年(2004)11月1日に邑久町牛窓町と合併して「岡山県瀬戸内市長船町」になっている。
 ついで「目 次」の扉、続いて上下2段組で7頁、7頁めの最後の2行(4〜5行め)は1段。さらに2頁、2頁に跨る匡郭で囲って「凡  例」が「7」項目ある。ここでは以下の2項目を抜いて置こう。1頁めの2〜5行め、

1、本書収載の民話資料は、一九八〇〜九三年にかけて、長船町で伝承者から直接聞いたも/
 のを基本にし、一部伝承者から文書で報告を受けたものも含まれる。資料の多くは一九八/
 〇年と一九九〇年に採録したものである。話の末尾に伝承者名を記した。伝承者名のない/
 ものは、太田享次郎氏によるものであり、それがほとんどである。


 1頁めの12〜15行め、

4、伝承者の住所、氏名、生年は次のとおり。
    石原三代子(大正六年七月十日生)服部
    太田享次郎(明治四十二年六月二十四日生)牛文
    玉 喜久太(明治三十七年九月十六日生)服部


 ついで中扉、中央に縦組みで「風呂場ばなし  岡山県長船町の民話−」とあって、その裏(白紙)までが前付で頁付がない。
 本文は8つの章に分類されている。1〜16頁「一 テンネエ話」1〜14番、17〜38頁「二 昔 話」15〜31番、39〜58頁「三 色 話」32〜49番、59〜69頁「四 狐 話」50〜58番、67〜79頁「五 不思議な話」59〜70番、80〜112頁「六 村 話」71〜103番、113〜129頁「七 伝 説」104〜126番、130〜137頁「八 ことわざ」127〜143番。
 「凡例」の「1」項めにあった通り、殆どの話に伝承者名が入っていない。末尾に(石原三代子)とある話は、3・11・13・105。末尾に(玉 喜久太)とある話は、4・8・54・104。各4話合計8話、すなわち135話が太田氏の話である。
 標題や編纂の経緯については139〜159頁「解 説」に詳しい。ここでは160〜161頁、「二〇〇一年九月二十三日」付の立石憲利「あとがき」に見える標題に関する記述、160頁8〜10行め、

 もらい風呂の風習は戦後しばらくまであった。それがなくなってから、すでに半世紀近くに/なる。もらい風呂は、湯に入るだけでなく、人々による会話と交流の場だった。それが楽しみ/の一つだった。そこで話されたのが「風呂場話」である。

を抜いて置く。
 怪談めいた話が載っている「四」章と「五」章は全て太田氏の話と云うことになる。人力車から消えた乗客の話は、71頁1行め、2行取り2字下げでやや大きくゴシック体で「61 人力車に乗った女」と題して、2〜5行め、

 和気(和気町)の方で車引きをしょうた人が話してくれた。大正初めごろの話じゃ。
 ある日、お墓のとこを通ると娘さんが、
「こうこうしたとこまで乗して行ってくれえ」
いうて言われるから乗したんじゃそうです。


 これが発端である。岡山県和気郡和気町の辺り、山陽本線和気駅を拠点に営業していた俥夫を考えて置けば良かろうか。太田氏は明治42年(1909)生だから大正年間の半ばの大正8年(1919)でも満10歳、「大正初め」は聞いた時期ではなく、俥夫が体験した(とする)時期であろう。
 墓地の脇で娘に呼び止められるのは、昭和初年の青山墓地のタクシー幽霊と同じパターンであるが、時間の指定がない。
 民俗学者の聞き取り調査――所謂“採集”に対しては、矢口裕康「八丈島中之郷のはなし」を例に、2011年11月18日付「七人坊主(17)」から2011年11月23日付「七人坊主(22)」まで*1不満を表明して置いた。太田氏は「解説」150頁1〜8行めにも述べてあるように、子供の頃から話好きで話を多数知り、語っているだけに、矢口氏の紹介する断片とは違ってよく纏まっている。面白い話として聞く分には十分だが、比較の材料とするには、やはりもう少し細部を詰めて置いてもらいたかったのである*2
 残り、6行めから72頁1行めを見て置こう。

 そこの家の前まで来てうしろを向いて見たら娘さんがおらなんだいうてなあ。へえから、そ/この家ぇ入っていって、
「じつはこうこうで、あんた方に来るいう女*3の人を乗したんじゃけど、ここでうしろを向い/て見たらおらなんだ」
いうて言うたら、そこの母親がなあ、
「どねえな具合であったか」
言うから
「こういう着物を着とられた」
いうて話したんでしょう。そうしたら、
「そりゃうちの死んだ子じゃ、そりゃあお墓からここまで乗ったわい」
言うて、そこのお母さんが車賃を払うてくれたいう。


 ここで少々不満があるのは“重さ”について注意していない点である。人力車の怪異談では、前回紹介した大正半ば頃の大森駅近辺の例や、2016年10月26日付「人力車の後押しをする幽霊(4)」に紹介した明治期の九段坂の例のように、しばしば重さが問題になっている。もちろん、娘の家に着くまでは軽いなりに重さがあって、そして娘の姿が消えたときには車を停めていた訳だから、急に軽くなったことで消えたことに気付くと云う展開にはなっていない訳だけれども、車を引いているとき、しばしば乗っているのかどうか不安になるくらい、軽かった、と云った感じがありはしないか、と気になってしまうのである。
 それからもう1点は、何で帰って来たのかが分からない点である。タクシー幽霊には、2016年1月11日付「山岸凉子『ゆうれい談』(3)」に見た山岸凉子「ゆうれいタクシー」のように、自分の通夜・葬式の最中に病院から戻って来るとか、自分の法事に際して墓地から戻って来るとか、何かしら自宅に戻るべき理由があることが多い。この話の場合、理由は後者になろうが、そこが脱落している。私だったらもう一押し、詰めたいと思ってしまうのだけれども。(以下続稿)

*1:2011年11月23日付記事右下の「<前の日」の右の下向きのボタンをクリックして11月18日付まで遡られたい。

*2:しかし、聞いていなかった(或いは忘れてしまった)要素を、咄嗟に思い付きで答えることになりかねないので、詰めて欲しいとは思うが、こうなるのも仕方がないのかも知れない。

*3:ルビ「おなご」。