瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

朝日新聞名古屋本社社会部『映画風土記』(2)

 8月28日付(1)の続きで、【上製本朝日新聞名古屋本社社会部『映画風土記』と【文庫版】現代教養文庫1492『日本シネマ紀行』の比較。
 由来は上製本3〜5頁「まえがき」、文庫版211〜212頁「あとがき」に説明されている。
 上製本から見て置こう。3頁2〜7行め、

 斜陽になったとはいえ、映画はこれまで多くの人々の心をとらえ、愛されてきました。映画/のイメージを支える日本的風土が、次第に失なわれていくのではないか、との声もきかれる今/日、思い出の映画の舞台となった土地やロケ地を訪ね、その風土と映像のかかわりを探ってみ/るのも、意味のあることではないだろうか。そう考えて生まれたのが、この連載企画でした。/また、社会部記者なりの取材を通して、その土地の人々の息づかい、映画の持つ社会的背景に/も触れることができれば、とのねらいもありました。


 これが文庫版では、211頁2〜3行め、

 新聞の映画紹介は学芸部が担当することになっています。これに対し、社会部記者が映/画を読者に親しみやすい形で記事にできないのか、と考えたのが、この企画です。

と、通常なら学芸部が担当することを断った他は簡略になっている。
 続く、上製本3頁8〜12行め、

 「映画風土記」は八十年四月から八一年三月まで、朝日新聞名古屋本社管内の愛知、三重、/岐阜の各県版に「三県特集」の読みものとして、毎週一回掲載されたものです。
 舞台は中部地方全域にとどまらず、隣接する滋賀、奈良県などにも及びました。ロケ地のリ/ストアップやスチール写真の提供には、各市町村の広報、観光課、各映画会社の宣伝部の協力/を得ました。【3】

は、文庫版では「あとがき」の後半に移され、212頁1〜4行め、

 この記事は、『映画風土記』のタイトルで一九八〇年四月から一九八一年三月まで朝日/新聞名古屋本社管内の愛知、三重、岐阜の各県版に掲載されたもので、別記の執筆者は当/時、同本社に在籍していた記者です。取り上げた映画の舞台は中部地方だけでなく、隣接/する滋賀、奈良県などにも及びました。

となっている、次回取り上げるが上製本では執筆者は「まえがき」の後半に列挙してある。また、協力機関については「各映画会社の宣伝部」のみ、この直前に次の記述と抱き合わせて述べてある。
 すなわち、上製本4頁1〜4行め、

 シナリオを読み、映画を見直し、現地に足を踏み入れ、さらに、映画の製作関係者の話を聞/く、といった手間ひまのかかる取材でした。しかし、ふだん映画についての取材をする機会の/少ない社会部記者たちは、もの珍しさも手伝って、喜んでこの作業をやりました。連載中、二/カ月ごとに一回、取材の裏話を記者座談会のスタイルで紙面にのせました。

と云う簡略な記述が、文庫版では211頁4〜13行め、

 方法論が問題でした。
 撮影されたロケ地を足で歩き、地元の人の声を聞き、自然の変化をとらえ、さらに、映/画監督や俳優にインタビューし、できるだけエピソードを集めて、短い記事にまとめると/いう方法を取ることにしました。
 雪の野麦峠をカンジキで越えた記者もいました。灯台巡りをしたもの、能登金剛の断崖/に立ったもの、深夜トラック便に同乗したもの……さまざまな形で、テーマに取り組んで/みました。
 もちろん、取材に入る前に、シナリオを読み、映画を見直し、スチールを集めることも/しました。現地の取材より、こちらの作業の方が骨が折れました。日本映画の資料の散逸/がひどかったのです。しかし、各映画会社の宣伝部の協力で、なんとか乗り切りました。

と、具体的になっている。なお「記者座談会」は文庫版にはないが、その内容の扱いについては次回触れることにする。
 上製本4頁5〜6行め、

 「映画風土記」は幸い、読者に好評でした。楽しい読みもの、として歓迎されたようです。/「自分たちの地方を舞台にした作品を取上げてほしい」という投書も相次ぎました。

と云う反響を述べた段落は、文庫版に採られていない。(以下続稿)