・山岸凉子スペシャルセレクションIX『鬼子母神』(14)
物語や歌舞伎などの登場人物に、その性格や役柄を被せたような名前を付けて、読者や観客に細かく説明せずに、いえ場合によっては名前の印象だけで性格や役柄の見当を付けさせる、と云う手法があって、要するに強くて悪い奴には「仁木弾正」とか「春藤玄蕃」などの強くて悪そうな名前が、下女(女中)には「お鍋」などと云ったぞっとしない名前が付けられる訳*1で、これが漫画にも利用されているのですが、山岸氏がこのような命名法を活用していたか、あまり印象がありません。私はまだ読んでいない作品の方が多く、かつあまり真面目に山岸氏の作品を検討した訳でもないので、差当って思い当たるのは短篇「ハーピー」と中篇『メタモルフォシス伝』くらいなのですが、ここに梨本家の主治医「影尾雪」を加えてみたいのです。
もし、梨本静音の祖母が9月6日付(09)に見たように383頁3コマめ、孫の男児を咄嗟に女児と云ったことが、――9月7日付(10)に指摘したように、何時まで生きられるか分からない孫に、一刻も早く子孫を遺す機会を与えるため、と云う深謀遠慮に基づくとするなら、弥生の両親の死亡から仕組まれていたのではないか、と云う気さえするのです。
川島弥生の両親については8月22日付(02)に引いた311頁6コマめに説明されているだけで、死因等は明らかにされていません。しかし「4年前」に2人とも死亡しているのです。
梨本家存続のための子種を宿すべき候補としては、弥生の従姉妹の京子もまた候補たり得るかも知れませんが「川島家の分家すじ」で家柄が若干劣るのと、3つほど年上の兄・進がいます。1人娘で両親・祖父母もいない弥生であれば、近親は3親等の「おじさま・おばさま」と4親等(いとこ)の「進・京子」で、「おじさま・おばさま」は梨本家の権威を無条件に有難がっていますから、399頁4コマめの影尾医師の台詞にある、弥生を梨本家の「養女に」する、と云う提案があれば(弥生を大学に進学させ、結婚するまで面倒を見ても全く困らない裕福な家で、関係も良好で厄介払いする必要は全くないのですが)一も二もなく賛成しそうです。
そうすると邪魔なのは弥生の両親で、影尾医師は上京の際に川島家に寄り、或いはどこかで会って、何らかの手段で顕れにくい毒を盛るか、或いは事故に見せかけて始末した可能性も、考えられなくはありません。親兄弟がいなければ、弥生を軟禁状態、いや監禁したところで、どうしても一目会わせてくれ、と云ったことにはならないでしょう。4年前に布石を打って、静音が16歳になったタイミングを捉えて、満を持して弥生を巻き込んだ計画を実行し始めたところだったのではないでしょうか。
8月22日付(04)の最後に予告した、梨本家が公家華族でありながら京都や東京ではなく、尋常ならざる山の中に、恐らく明治以来*2、住まっている理由ですが、これは先に触れた383頁の5コマめ「梨本家に悪い血が流れてるとはぜったいにいわせたくなかった」ためで、歴代の入り婿たちも外部に「呪われた血筋」についての噂を広めないように、この屋敷にほぼ閉じ込められていたのではなかったでしょうか。
387頁8コマめの、重傷を負った静音に対する祖母の台詞「おお…お もうもう なんてばかなことを この私の苦労もしらずに」は、真っ当に医学の進歩を信じ、影尾医師の誠実さに対する信頼を踏まえた上での発言と云うよりも、そんな、手段を選ばず罪を重ねて来た自分の思いを受け止めてくれない孫に対する情けなさ、自分の恐るべき努力が虚しくなることへの恐れが、なさしめたものだったのでしょう。
静音の祖母が死ねば、静音を心から愛している(らしい)影尾医師を、静音が説得して、弥生に犠牲を強いる行き方を止めるよう計らうことも出来たかも知れません。しかし静音の祖母が生きている限りは無理です。388頁5コマめの静音の祖母の台詞「私の代で梨本家をたやしてなるものですか! /そんなこと…そんなことはゆるされません」からも、血筋の存続だけを目的に、その一念で生きていることが察せられます。祖母は死にそうになく、自分も今すぐ生命に危険が及ぶような状態ではないことを悟ったとき、状況を打開するために静音の採り得る選択肢は、ごく限られていたのです。
それはともかく、影尾家は代々梨本家に主治医として仕えながら、子種を得て後の入り婿を外部に出さないよう無力化し、場合によっては死に至らせ、そして影尾雪については弥生を拉するための障害になる弥生の両親を始末したのではないか、と云う疑惑が、――つまり影尾家は梨本家の「影」を背負って来た家系であって、「影尾雪(かげおきよし)」とは、つまり梨本家の「影」を「雪」ぐ*3=「清める・除き去る」ことを、名前からして負わされていることになるのです。
影尾医師は402頁2コマめ、梨本家の「すべてのあとしまつをつけてからあとをおった」のですが、まづは放火の可能性を指摘した消防士に、事故であると強弁して押し通してしまったところに、彼が自分の名前に負わされた役割に忠実であったことが顕れています。396頁4コマめ〜397頁1コマめ、
(不明):「影尾さま 消防団のひと*4がお話を…」/
消防団:「火はひな人形を飾ってあった広間からです 火のまわりからいって石油かなんかがまかれたのでは…」
影尾雪:「いいえ! そんなことはありません! /ひなだんのボンボリの灯を消しわすれてあったからそれが原因です」【396】
消防団:「しかし」
影尾雪:「しかしもなにもない! いまはそんなことなぞどうでもいいのです」
この最後の台詞に、影尾医師の静音に対する思いが滲んでいるのですが、こんな強弁が押し通せるくらいに梨本家には権威があったもののようで、それを一番強く感じて全ての行動の原理にしていたのが、他ならぬ影尾医師であった訳です。
それはともかく、山岸氏は、表面的には静音に対する影尾医師の純粋な思いみたいに印象付けるラストを描きながら、実はこれ以降、平成初年に掛けて量産される後味の悪い、そうでなくてもかなり不幸な現実が身近にあることを感じさせる短篇群と同じような、黒い影を忍ばせてこの作品を描いたように思えてならないのです。
多くの読者は表立って強調されている絶対的主従関係とダブった、同性愛・異性愛を超越した至高の愛みたいなものを見て、そこに痺れて、それ以上掘り下げずに済ませているように、思われるのですけれども。
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これで本作の検討をひとまづ終えますが、最後に題名「ひいなの埋葬」ですけれども、埋めたわけではないので正確には「ひいなの火葬」とするべきです。いや、真相を知っている梨本家のご隠居様・静音、女中の淑、そして影尾医師が全員死んでしまったことで「ひいな」とともに伝えてきた、おぞましい真実が全て「埋葬」された、と云う比喩なのでしょうか*5。