一昨日からの続き。
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しかし、どんなに此処こそが私のいるべき場所のような感じがしたとして、もう居場所がないのが本当だ。戻りようもない。――万一戻れたとしても、もう昔のようには出来ないのだ。
そう考えると、これ以上書くのが虚しくなって来た。
簡単に書いて置く。
半年振りの講師室で、私は在勤中と同じくらい、卒業生に会った。
私の馘首と同時に卒業した生徒たちには「私も皆さんと同時に卒業します」と挨拶(?)してあるから良いとして、それ以前の卒業生は私が馘首されていることを知らないから、まだここにいるつもりでいる。もうここの人ではないことを告げ、昨年再会を約したし、連絡手段が他にないし別に今後連絡を取ろうとも思っていないので、まぁ今年は来たのだ、と卒業生に同じ説明を繰り返すうち、「来年も来れば良いんじゃないですか」と云う提案が出た。考えてみると尤もである。同窓会ではないが、専任だって年に1度の再会の機会である。私も卒業生みたいな立場で、年に1度いさせてもらっても良いではないか。
そして、翌年度にも講師室で卒業生たちと会った。前年には会わなかった卒業生にも会えた。
けれども、3年めに講師室からも締め出されてしまった。講師室にいたから訪ねて来る卒業生に会えたので、そういう居場所がなくなればもう誰にも会えない。嘗ての同僚も講師室からいなくなって、そろそろ潮時だと思ったのである。
そんなに邪魔なのか。……年賀状ではないが1年に1度くらい、私如きにも久闊を叙する喜びを残してくれても良かったではないか、と思ったけれども、嘗て在勤中、放課後によく訪ねて来た卒業生に「母校に来なくても良いくらい充実した学生生活を送れ」と言っていた私なのであった。
心残りは、馘首前に何度か会っていた卒業生に会って、最後に今後の人生の幸運を言ってやれなかったことである。(以下続稿)
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私は現役生徒の頃、偏屈で女子生徒と気安く話すような按配ではなかった*1から、講師になって見て、初めて女子生徒と話すことになって、もちろん、基本的に娘の世話を焼く親父のような感覚で、2016年11月12日付「男の甲斐性」に述べたように下心のようなものとは離れていたつもりではあるが、それでも少しは若やいだのである。
自分の現役生徒時代に疎かにしていた、皆と考え、皆と喜び、感情を共有する、そういう感覚を、今更ながらに補っていた。だから女子高を去るとき、それこそ、桜の園を去るラネーフスカヤ夫人のように「さようなら、わたしの青春」と云う気分だった。そして縁が切れた今、若さと云うものを懐かしむことはあっても、あのように若やぐことは二度とない。いや、そう云う感覚を補えた幸運をこそ、感謝すべきなのであろう。
*1:当時のことは2015年8月10日付「吉田秋生『櫻の園』(2)」に略述し、5月2日付「スキー修学旅行(1)」等に詳述した。