瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(33)

戸田学上方落語の戦後史』(3)
 昨日の続きで、昭和30年(1955)春に正岡氏が宝塚若手落語会を訪ねた折のことを述べた戸田学上方落語の戦後史』と、桂米朝の『桂米朝座談2』のための対談での回想との齟齬について。
 『桂米朝座談2』は、正岡氏の弟子が、晩年ではあるが師匠が1度だけ見に来た折のことを回想したのであるから、信じても良さそうに思われる。しかも、編者は豊田善敬と戸田氏の2人で、対談収録に立ち会ったかどうか分からないが、編集作業の折に(2人でどのように分担したかも分からないが)何度も目を通しているはずである。
 それなのに『上方落語の戦後史』に、全くと云って良いほど違うことを書いているのは、どうしてなのだろうか。
 常識的に考えると、戸田氏は『桂米朝座談2』の回想を非として、『上方落語の戦後史』の内容を是として書いた、と云うことになるのだが、後述するように何に拠って書いたのかが分からないので、俄に信用しづらいのである。
 ――このような例は、これに限らないらしい。『上方落語の戦後史』のAmazon詳細ページのレビューを見るに、2017年7月2日付の「親父痛」のレビュー「★★★☆☆二代目春團治関係の記述の偏り(松鶴さんや米朝さんへの偏り)など・索引がないので検索性に難」に、

昭和21年秋の二代目春團治さんが九州興行から大阪に戻ってくるあたりの記述が、二代目夫人や三代目春團治さんの言と不整合があるのが気になります(私は大分県の人間で、25年ほど前、三代目春團治さんにその辺のことをうかがったことがありますが、仰ってたことと違うような)。‥‥

とある。尤も、私は二代目桂春團治の戦後の動向について、次のCDの解説書に目を通したくらいで、詳しくは知らない。

二代目 桂春團治 ライブ十番

二代目 桂春團治 ライブ十番

 従って、どのような「不整合」なのか、俄に分からない。いづれ検討して見たいとは思うのだけれども。
 それはともかく「親父痛」は続けて題にしている四天王のうち2人に偏っていることを指摘し、そして次の1文で結んでいる。

また、通史として書くのであれば索引などを付けて欲しいし、何に基づいて書いたか参考文献も詳述して欲しい。ということで厳しく評価した。


 索引については同感で、2月17日付(24)に『桂米朝集成』全四巻について述べたところである。次の「参考文献も詳述して欲しい」については説明が必要だと思うので、私の読んでみての感じに基づいて、参考文献、と云うか『上方落語の戦後史』の資料の扱いについて、次に述べて見ようと思う。(以下続稿)