瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部の思ひ出(8)

 昨日の続きで「田中康弘『山怪』(2)」と題して書き始めたのだが、高校山岳部時代の話が中心になったので改題した。――従って2017年4月4日付(7)の続きではなく、若干重複するところもある。

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 私は高校時代山岳部員で、もちろんそれはそれまでにも登る機会があったから入ったので、横浜市の中学時代には父と2年続けて丹沢山地・塔ノ岳の尊仏山荘に泊まっている。1年めはそのまま丹沢山地最高峰の蛭ヶ岳を経て、焼山まで縦走して青野原に下山した。2年めは確か蛭ヶ岳から檜洞丸を経て大室山まで踏破すると云う計画だった(と思うのだが、実行した訳ではないので既に記憶が定かでないのだ)けれども、雨に降られて塔ノ岳からそのまま南の大倉に下山した*1
 高校2年の秋には2017年4月2日付(5)に述べたように他の部員が来なくなってしまい、仕方なく(?)私はたびたび高校の裏山に1人で登り、1度は無謀にも沢登りの対象になるような沢に何の装備もなく入り込み、ゴルジュを抜けて滝を登り、蟻地獄のようなガレ場を這い登ったこともあった。――実は死にそうになったことが再々あって、滑落しても携帯電話のない時分のことだから(今も持っていないのだけれども)死体で見付かるまでに捜索に何日も掛かって大変な迷惑を掛けたことだろう。幸いそんなことにならずに済んで、今や山に登りたいと思うこともない。
 別に遭難し掛かった恐怖体験とか、幽霊に遭ったとか云う恐怖体験とか、そんなことがあって嫌になったのではなく、面倒になったのである。――今でも幾ら歩いても疲れないから、山に登っても多少疲れるくらいで済むと思うのだけれども、わざわざ行こうと思わないのだ。
 だから2017年3月29日付(1)に述べたように、近頃山登りが流行っていて、漫画や小説も売れている、と云うのが俄に信じられないのである。同様に昨日取り上げた田中康弘『山怪』も、何故「10万部」も売れているのか、よく分からない。何か理由があるのかも知れないし、何となくこうなっただけなのかも知れない。
 特に怖がらせようと云う作為はなく、第三者の視点で体験者でもある話者(又聞きの話も少なくないが)の話した内容を整理して、田中氏は記述している。体験者の談話と地の文とを織り交ぜたルポルタージュの文体で、談話だけで綴るのではなく、田中氏の視点だけでまとめてもいない。昨日の3月10日付「田中康弘『山怪』(1)」に見たように、帯には「現代版遠野物語」とあるのだけれども、『遠野物語』のように同じ地域の話を纏めたものではないし『遠野物語』は山の話が多いけれども別に山に限ったものでもない*2。しかし売り方としては、結果的に成功したと云うことなのだろう。
 それで高校山岳部員だった私に「山怪」はないのか、とは、当ブログをちらちら覗いている人は訊こうとも思わないだろうが、――やっぱり、ないのである。
 せいぜい、――夕暮れの高校の裏山の、たまに山岳部でもテント張りの練習に入る堰堤(砂防ダム)の、さらに上流の支流に、10mを越える滝があって、但し水量はごく僅かで、滝壺もなくほぼ垂直の崖の下には拳大や人頭大の石が、それこそ山のように積み上がっていた。その急傾斜の石積みの途中に立って、滝の落ち口を見上げたとき、ふと、あの落ち口の向うを見たくなって、……思わずぞっとしたのである。せいぜい、そのくらいである*3
 テントで怖い話をすることもなかった。山の中に泊まることが怖いと思ったことはないし、山の中で脅えて騒ぎ出した部員もいない。とにかく何の怖いこともなかった。だから、まぁ興味もないからそんな話が出なかったのだろう。他の高校の山岳部と合同で泊まったこともあるけれども、やはり別にそんな話は出なかったのである。
 OBからも顧問からも、そんな話を聞いた覚えがない。いや、高1の頃、生徒会長を務めていた高3の先輩(男)から、近くの山にまつわる怪談を聞かされたことがある。しかし一般登山者の体験談と云うことで、山岳部には縁のない話であった。やはり山岳部に伝わる怪談というものは、なかったのである*4
 そもそも、私の高校に怪談がなかった。横浜市の中学には「七不思議」があったし、高校の周囲の、同級生たちの出身中学・小学校にもそれぞれ怪談があったのだが、歴史ではそれら小中学校より若干新しい程度でありながら、何の話もなかった。高3のとき、私と同じ学年の生徒会が、文化祭の前か何かで暗くなるまで校内に残っていて、帰り掛けに怪奇体験に遭ってパニックになったとか云う話を、そのすぐ後に聞かされたくらいである。
 ところで近くの山の怪談と云うのは、中腹にある山寺の参道で起こった出来事で、その後、高3のときに同級生(女)*5から、この山寺の息子が同じ辺りで当り前のように怪異に遭っていると云う話を聞いた。詳細は当時のメモを発掘してから述べるつもりだけれども、私も日が暮れて真っ暗になった同じ参道を何度か(最低でも1度は)通ったことがあるのだが、別に何も感じなかったのである*6
 山岳部が怖い話をしないのは、何とも思わないから平気なので、何かがあると思ったら山の中では俄に救いになるような事物が存在しない。そういう反応を示す人間が皆無と云えない以上、暗黙裡に、こんな話をしないよう、心得ていたのではないか、と思われるのである。

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 或いは、世代の特徴かも知れないが、よく顔を出していた7つ上の代のOBからもそんな話は出なかったから、前後10年くらい、私の高校の山岳部は怪談的に不毛だったことになる。
 それに、部室には怪談でない怖い物があった。――松本深志高等学校『西穂高岳落雷遭難事故調査報告書』が2冊あって、流石に遭難直後の現場写真などはなかったが、雷撃にあって死亡した生徒の皮膚に浮き出た紋様のスケッチが掲載されていて、妙に生々しい感じを与えたのである。この報告書には他にも参考として高校山岳部の遭難事故の例*7が記載されていて、文字だけではあったが私たちの想像力を刺激するには十分であった。それで私たちはそんな危険を冒してまで山に登りたくない、と云う主義になってしまったのかも知れない。
 それ以外にも怪談が流行らなかった条件があるのかも知れない。今時の山岳部は、一体どうなっているのであろうか。(以下続稿)

*1:下山するのに距離が短いことで選んだのだけれども、傾斜が急な上にぬかるんでいて、かなりいひやひやしたことを覚えている。

*2:北上山地に開けた盆地が遠野郷で、中心地は八戸氏(遠野南部氏)の城下町であった。

*3:或いは、学ランもしくは2本線のジャージで滝の下にぼんやり立っている私を見付けた人がいたら、その方が余程怖かったことだろう。

*4:当時、私は怪異談を聞くとほぼ全てメモして、その後、資料集にまとめたりしていたので、記憶がない=記録がない、と云うことで聞かされなかったことはほぼ間違いない。

*5:高1のときも同級だったので、高1のときに聞いた可能性もある。

*6:6月23日追記】このことは既に、2013年9月28日付「三角屋敷(2)」に触れたことがあった。

*7:昭和27年(1952)6月28日の北海道立芦別高等学校山岳部の芦別岳遭難事故(生徒2名死亡)と昭和44年(1969)8月5日の神戸市立御影工業高等学校山岳部の長野県飯田市松川入での鉄砲水遭難(教諭2名生徒5名全員死亡)を覚えている。但し後者はこの報告書が刊行された年の事故なので、別に新聞縮刷版で調べて知ったのかも知れない。