瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

Prosper Mérimée “La Vénus d’Ille”(23)

・I giochi del diavolo “la Venere d'Ille”(12)
 このTVドラマでは、女神像と新婦クララが似ていることになっている。
 どのくらいに似ているのかと云うと、――女神像の顔をスケッチをしていたはずの主人公は、アルフォンスとクララの新婚初夜、寝付かれないままにスケッチへの加筆を始め、クララの顔で完成させてしまうくらい(?)似ているのである。
 原作では、2人(?)は次のように比較されている。昨日引用した主人公の感想の前の段落である。

  Mademoiselle de Puygarrig avait dix-huit ans ; sa taille souple et délicate contrastait avec les formes osseuses de son robuste fiancé. Elle était non-seulement belle, mais séduisante. J’admirais le naturel parfait de toutes ses réponses ; et son air de bonté, qui pourtant n’était pas exempt d’une légère teinte de malice, me rappela, malgré moi, la Vénus de mon hôte. Dans cette comparaison que je fis en moi-même, je me demandais si la supériorité de beauté qu’il fallait bien accorder à la statue ne tenait pas, en grande partie, à son expression de tigresse ; car l’énergie, même dans les mauvaises passions, excite toujours en nous un étonnement et une espèce d’admiration involontaire.


 杉氏(岩波文庫)の訳、145頁9行め〜146頁3行め。

 マドモアゼル・ド・ピュイガリィグは十八であった。いかにもしなやかな、きゃしゃなから/だのつくりは、未来の夫の筋骨たくましい骨張った姿と著しい対照をつくっていた。美しいば/かりでなく、何となく人をひきつけるところがあった。私は彼女の返答のすべてが完全に自然/な調子をそなえているのに感心した。それから善良らしいそのようすにも心をひかれた。けれ/どもそれは、かすかに悪意の色を帯びていないこともなかったので、我にもあらず、私は主人/のヴィーナスのことを思い出した。私は心中にこうした比較をしているうちに、一体、あの像/に認めざるを得なかったすぐれた美しさは、大部分、その牝虎のような表情に依存するもので【145】はなかろうかという疑問を自分自身に発してみた。けだし、生活力というものは、よこしまな/情熱にあっても、常にわれわれの中に驚愕の念と一種の我にもあらぬ感歎の念をひき起させる/ものである。


 西本氏(未來社)の訳、107頁12行め〜108頁3行め。

 ド・ピュイガリッグ嬢は十八歳で、そのスラリとして華奢な体付きは、婿がねの筋骨隆々たる/骨張った体格と、いちじるしい対照をなしていた。美しいばかりか、蠱惑的でさえあった。また/その返答がいずれも自然で、まったく無理がないのにも私は感嘆した。かつ、気立ての良さそう/なその態度、ただそうはいっても、いくばくかの辛辣さにも欠けていないその態度は、わが主人/のヴェヌス像を、私に思い起こさせずにはおかなかった。かく、心中に両者の比較をしていると、【107】私には、美しさという点では彫像に軍配を上げなければならないとはいえ、それは主に像が示す/あの牝虎のような表情の獰猛性によるところ大なのではないかという気さえしてきた。けだし感/情のエネルギーというものは、それがたとえ邪悪な情熱であってさえも、その激しさそのものに/より、われわれの裡に驚きと、また一種の感嘆の念を、否応なしに惹き起こさざるを得ないから/である。*1


 「獰猛」にルビ「ねいもう」があるが、「どうもう」の誤読である。
 平岡氏(岩波少年文庫)の訳、221頁5〜12行め。

 花嫁になるピュイガリッグ嬢は十八歳。すらりとしたきゃしゃな体は、結婚相手の筋骨/たくましいひきしまった体格とは対照的だ。彼女は美しいだけでなく、魅力にあふれてい/た。なにを聞かれても、気取らず答えるところがまた好ましい。けれども善良そうで、ほ/んの少し悪戯っぽい表情を見ていると、ついついペロラード氏のヴィーナス像を思い出し/てしまった。わたしは心のなかでひそかに比べてみたが、やはりヴィーナス像のほうが美/しいと認めざるをえなかった。それはあの、いかにも勝気そうな表情から来ているのでは/ないだろうか? たとえ激しい悪意の力だろうが、強烈なエネルギーはわれわれを驚かし、/無意識の称賛へ導くものだから。*2


 若くて美人で、受け答えが如才なく、ひたすら善良、と云う訳でもなく愛嬌も少しある、そんな女性である。TVドラマの新婦クララは、年齢はともかくとして、それから顔も好みの問題だから措くとして、体型は確かにこの通りである。
 その、ちょっと「悪意の色を帯びて」或いは「辛辣」或いは「悪戯っぽい」ところが、女神像を連想させているのだが、共通項はそのくらいで、別に容姿が似ている訳ではなさそうだ。
 女神像の美しさとその魅力については、別に、かなりの分量を費やして説明されているが、当ブログでは、その表情に「牝虎のような‥‥獰猛性」もしくは「邪悪な情熱」が見られるとの指摘にて長々しい引用の代わりとして置こう。――とにかく、女神像と新婦クララの容姿を一致させたことで、この設定はTVドラマでは無効になっている(はずである)。そしてそこに、前回指摘した新郎・新婦そして主人公の三角関係、いや、女神像も入れて四角関係と云う独自の設定を成立させているのである*3。(以下続稿)

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 ところで、西本氏の訳に使われている「蠱惑的」と云う言葉で思い出したのが、大学の英語講師の雑談である。雑談ばかりしているお爺さんだったが、その雑談の中に、この講師が若い頃、清川虹子の隣家に住んでいて、よく清川氏と麻雀をしていたそうだが、この清川氏の家を訪ねて来た、日傘を差した山田五十鈴に、世田谷線六所神社前への道で擦れ違った。それがとても綺麗だったのだが、ただの綺麗ではない、あれは蠱惑的と云うべきですねえ、――25年くらい前に聞いた話なので細部は好い加減になっていると思うが、そんな話をしたのである。山田五十鈴(1917.2.5〜2012.7.9)は知っていたが、清川虹子(1912.11.24〜2002.5.24)は知らなかった(清川氏こそ生涯現役だったのだけれども)のだけれども、山田氏にしても私らにとっては貫禄あるお婆さんでしかなかったので、一体何時の話なのかと思って、今の東急世田谷線にない「六所神社前駅」を調べてみたところ、昭和24年(1949)に廃止されていたのであった*4。――すなわち、戦後まもなくのことなのであろう。

*1:ルビ「/ねいもう//うち・いやおう/」。

*2:ルビ「はなよめ・じょう・さい・けっこん/みりょく//いたずら///きょうれつ・おどろ/しょうさん」。

*3:そもそもは主人公を抜きにした三角関係と云うべきなのだけれども。

*4:その頃からこういう調査をするのが得意だったのである。――調べたから覚えているのである。なお、六所神社前駅など、現存しない世田谷線の駅については、「わかんさんのブログ」の2013/11/13「昔の世田谷線の駅」に当時の地図や現在の写真を掲載しての詳しい検証がなされている。