瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

今野圓輔『怪談』(09)

・赤倉山の仙人(1)
 今回は昨日触れた、中公文庫版では5月19日付(02)に引いた小池壮彦「解説」に【写真3】として掲載されている「Ⅲ 妖怪変化百態/二、山中に住む妖怪/生きている仙人」に掲出されていた写真について、小池氏の説明とネット上の情報に触れて置くことにする。
 前回、現代教養文庫版の掲出位置を81頁左下としたが、写真(8.8×4.6cm)の上には本文が11行・7字分組まれており、写真の右には本文3行、左には4行分あってどちらかと云うと右寄りである。但し写真の左は本文ではなく、綺麗に破れていない、繋がったところの方が多い破線で、上下(1.5cm)と左(7.6cm*1)を仕切って、縦組みでやや小さく、

木の葉を綴って前を隠していないところが昭和の仙人の真面目/ともいえようが、よれよれの越中フンドシ姿は、むしろあわれ/をもよおす。若い人たちには、むしろ「社会生活の敗惨者」と/いった解釈がぴったりするかもしれない。

との説明がある。
 写真の下、やや小さい横組みのキャプションは「神々しき? 赤倉山仙人」であったが、前回も見たように中公文庫版では、226頁右下に掲載した写真(5.4×2.7cm)の左に、

写真3・神々しき? 仙人
 本書「Ⅲ―2 山中に住む妖怪」の「生き/ている仙人」の項に掲載。この写真は原著者/が本文で述べるように毎日新聞の記者が撮影/したものである。同紙は昭和二十九年に赤倉/山に住む世捨て人を取材し、翌年正月の青森/版で紹介した。旧版のキャプション―「木の/葉を綴って前を隠していないところが昭和の/仙人の真面目ともいえようが、よれよれの越/中フンドシ姿は、むしろあわれをもよおす。/若い人たちには、むしろ『社会生活の敗残者』/といった解釈がぴったりするかもしれない」

とある。
 しかしながら、本文の書き出しは次のようになっていて、報道の時期が異なる。現代教養文庫版79頁2行め、

 生きている仙人 一九五六年にやつぎ早やに二人もの「生きている仙人」の話が伝えられた。/‥‥


 中公文庫版はゴシック体の項目名だけで1字下げ1行としている(81頁4〜5行め)。
 典拠は小池氏も述べている通り、現代教養文庫版79頁14〜15行め・中公文庫版82頁4〜5行め、

‥‥。毎日新聞|社の記/者が、この仙人と会見した報告記が、その青森版に写真入りでのっている。

とある(前者の改行位置を「/」、後者のそれを「|」で示した)。
 赤倉山の現状については、小嶋独観のサイト「珍寺大道場」の2004.6.「#177 赤倉霊場/青森県」に詳しい。現在のような霊堂が立ち並ぶ偉観となったのは、この仙人の歿後のようである。ワシミミズクサイト「誰も紹介しない津軽」の2016/11/04「赤倉霊場」には、さらに詳細な紹介があり、赤倉山仙人についても簡単な紹介がある。

矢沢堂開祖は新谷万作氏。
明治元年 (1869) 生まれ。 十二里村矢沢 (現藤崎町) 出身。
通称、矢沢の仙人様。 昭和11年 (1936) 頃、矢沢堂建立。 昭和30年 (1955) 3月12日没。
左の石碑には大江彦江神と昭和20年 (1945) の文字。
扁額には大江彦江大神、柱には大江彦江大神入山百年記念の文字がありました。


 この歿年月日が正しいとすると、今野氏が報道の時期を昭和31年(1956)としているのは誤りで、小池氏が述べる通り、昭和29年(1954)取材、昭和30年(1955)1月報道、と云う流れであったのであろう。
 他に、本書とは仙人の名前や生年が異なる。生年は明治元年の年末に生まれれば西暦1869年と云うことにはなるけれども。――すなわち、現代教養文庫版79頁6〜8行め・中公文庫版9〜11行め、

‥‥。この仙人は、里の人間世界に|ある時の名前/は、荒井万作といい、南津軽郡十二里*2村矢沢が本籍地である。この年八七歳|になるというから、/この仙人は明治元年生まれのはず。


 「この年」が昭和31年(1956)とすると、明治元年(1868)生ならば満88歳になってしまう(数えでは八十九歳)し「十二里村」は昭和30年(1955)2月1日に南津軽郡藤崎町に併合されている。昭和30年(1955)なら、確かに満「八七歳になる」勘定である。――「あらい万作」と「あらや万作」の違いは、方言の発音の聞き違いであろうか。
 今野氏は本書の翌年に刊行された図説文庫42『〈日本の/くらし〉行事と風俗』でもこの仙人を紹介している。そのことは版元の偕成社ウェブマガジン「Kaisei web」の2017.10.25「編集部だより/偕成社こんな本もありました(第1回)」に詳しく紹介されている。執筆者は末尾に「(編集部 早坂)」とあるのだが、不審なのは「この本が刊行されたのは、1951年。」としていることである。「図説文庫」全44冊の刊行順を確認しても昭和33年(1958)と思われるし、昭和26年(1951)では「毎日新聞」記者の取材前のことになってしまう。――版元のウェブマガジンながら刊年が間違っているとしか思えないのである。(以下続稿)

*1:下が0.1cm分切れている。

*2:ルビ「さと」。