瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(23)

 2013年7月3日付(22)から丁度5年、経ってしまった。
 久し振りにこの主題についての記事を上げようと思って、念のため過去の下書き記事を漁って見るに、標記のタイトルで、以下の本文が見付かった。保存した時間からして2013年7月3日付(22)を投稿する際に分割したものらしい。これがなぜそのままになってしまったのか、今となっては全く覚えていないのだが、まづ今回は、これを全く手を入れずに投稿して、それから最近気付いた事どもについて述べることとしたい。

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 「木曾の旅人」で語り手の「T君」が、杣の重兵衛から「旅人」の話を聞くのは明治24年(1891)秋のことになっている。「蓮華温泉の怪話」の事件が起こったのは明治30年(1897)である。従って、それぞれの本文に即して考える限り、明治20年代前半の「木曾の旅人」から明治30年(1897)の「蓮華温泉の怪話」という順序になるはずで、「蓮華温泉の怪話」から「木曾の旅人」が出て来るとは、普通は考えない。
 その後、東雅夫によって「文藝倶樂部」明治35年(1902)7月号掲載の「木曽の怪物」が紹介されたが、明治23年(1890)3月に綺堂の父が軽井沢で聞いた話ということになっており、「日本妖怪実譚」という連載の1篇だったせいか「因に記す、右の猟師は年のころ五十前後で、いかにも朴訥で律儀らしく、決して嘘など吐くような男ではない」と事実であることが強調されている*1。しかるに、ここでは「木曾の旅人」の導入部に語られる「えてもの」の話に終始しており、「木曾の旅人」の話にはならないのである。そこで初めて、軽井沢で聞いた話というのは実は「えてもの」の話だけで、本題である「旅人」の話は余所から持って来て抱き合わせたのではないか、と推測することが出来る――そういう順序になるはずである。
 その上で、「木曾の旅人」がほぼ現行の本文になるのが大正11年(1922)刊『子供役者の死』であり、その原型の「五人の話」も大正2年(1913)だから、明治30年(1897)の事件に伴う風説を取り入れた可能性が考えられるはずである。尤も「五人の話」は千葉氏の紹介を読む限り、巡査か警察の探偵だかに追跡されてということにもなっていないらしい。「木曾の旅人」になるとこの辺りも「蓮華温泉の怪話」に似てはいる。
 そうなると、今度は、どうやって知ったのか、ということを一応考えてみることになる。「蓮華温泉の怪話」が綺堂の耳に入る機会があったのか、『信濃怪奇傳説集』以前に活字になっていてそれが綺堂の目に触れた機会はないのか、そもそも、本当に「蓮華温泉の怪話」が原話なのか、どこか余所に似たような話が語られていないのか。もちろん、「木曾の旅人」に描かれた伝承経路も、一応可能性としては残して置かねばならない。
 一頃、民間伝承というとそれだけで文字に記録されたものに先行する、という扱いをされることがあった。――民俗学や民間伝承というと、とにかく古老の話のように思い込んで、東雅夫が実話怪談集であることを強調するまで1人の青年が語った『遠野物語』が古老たちの伝承を採集したもののように、何となく思い込まれていたように、「蓮華温泉の怪話」も「伝説集」に載っていることから「伝説」扱いされているらしいのである。
 星野氏の見た本は綺堂没後に刊行されたものである。しかし従来の捉え方で行くと「伝説」とは古くからその地方の人口に膾炙しているものな訳だから、記録されたのが新しくてもそれは問題にならない。古い素朴な内容を保存しているか、合理主義や儒教道徳などの視点から改変された箇所がないか、そんなことで判断をしていた。
 そういう当時の常識的な考え方に基づいて、星野氏も「蓮華温泉の怪話」を「伝説」呼ばわりしているのだが、この話は「伝説」なのだろうか。

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 千葉俊二による「五人の話」の紹介は、2013年6月29日付(18)に引いた。その後、3月30日付「田中康弘『山怪』(8)」に触れたように、東雅夫 編『山怪実話大全 岳人奇談傑作選』178〜189頁に収録されて、読めるようになった。(以下続稿)

*1:引用は東雅夫 編『飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選』(二〇〇八年三月五日初版第一刷発行・定価2300円・メディアファクトリー・317頁)275〜279頁「木曽の怪物」による。