瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(28)

・白銀冴太郎「深夜の客」(4)
 前回の最後に触れた灰月氏tweetから朝里樹『日本現代怪異事典』に及んでも良いのだが、その前に8月7日付(26)の続きで、①白銀冴太郎「深夜の客」と②杉村顕道「蓮華温泉の怪話」を、頭からざっと比較して見よう。
【A】導入〜場所の説明
 内容は同じだがかなり書き換えている。
【B】導入〜時期の説明
 異同は、①一九〇頁7行め「 大正三年の秋――山峡の秋は深んで浴客も山を下った。‥‥」と、大正3年(1914)となっていたのが、②一九九頁5行め「 明治も三十年を数えて、其の年の秋のことであった。浴客もすっかり山を下って、‥‥」と、明治30年(1897)のこととなっている。これは非常に重大な書き換えで、以下の読解にも影響を及ぼすことになるが、それは問題となる箇所で指摘することとしよう。
【C】男の来訪〜主人との会話
 会話は書き換えられているが内容は同じ。ここで注意して置きたいのは、①一九一頁4行め「洋服を着た、鳥打帽をかぶった紳士」=②一九九頁10行め「洋服姿の鳥打帽子の紳士」の台詞に、主人に「旦那はどちらの方です」と問われて①一九一頁16行め「東京の者なんだ。今日、糸魚川口から登ったんだよ。」=②二〇〇頁9行め「東京ですが、今朝は糸魚川口から登りました。」と答えている点である。
【D】主人の亡妻と八歳の子供
 ここも、主人が春に妻を失い、八歳の男児と2人と云う家族構成は同じである。
 もちろん、①明治30年(1897)と②大正3年(1914)のどちらも同じ家族構成で、しかも全く同じような事件が起こった、などとは思えないので、同じ話の、年を書き換えたことになろう。
 何故書き換えたのだろうか。①の年は正確でなかったので②で訂正した、と考えることも出来よう。しかし、他に大きな改変がないところからすると、わざわざ追加取材をしたものだろうか、と思う。――①白銀氏=②杉村氏として、そこまで正確さを追求するような人であるなら、じゃあ最初に書いた①大正3年とは何だったのか、と云うことにもなる。
 2014年7月11日付「赤いマント(139)」或いは2016年3月3日付「松葉杖・セーラー服・お面・鬘(20)」等*1に指摘して来たところだが、たとい本人の回想であっても、年を経てからのものは信用出来ないと私は思っている。前者のように同時代の記録が別にあるか、後者のように放映期間の限られるCMやTVドラマと云う傍証があるか、そう云うもののない年の記述は、参考資料程度にしかならないと思っている。
 確定的に云えるのは、話の存在が②昭和9年(1934)から①昭和3年(1928)に遡った、と云うことだけである。この話の場合、年を書き換えた理由が傍証等により明らかにならない限り、年は「明治30年のこととされる」或いは「大正3年のことと云う」の如く、保留付きで言及すべきものと考える*2
 ――前年の春に主人の妻が死に、そして男児が数えで八歳であったのが、①大正3年(1914)か②明治30年(1897)か確定出来れば、と思うのだが、今から確かめる術があるかどうか。NHKの「ファミリーヒストリー」のように、出来なくはないと思っているのだけれども。(以下続稿)

ファミリーヒストリー

ファミリーヒストリー

【追記】②の年の“修正”について、8月6日付(25)に見た、①「深夜の客」が掲載された「サンデー毎日」の誌面には、白銀冴太郎の住所が記載されていた。――これを読んだ、事情通(!)が、15年ほど前の大正3年ではなく、30年以上前の明治30年だ、と、年だけ修正する葉書を寄越して、②の執筆に当たり差当り年だけを修正した、と想像することも出来よう。しかしこれも、……そう考え得ると云うまでである。

*1:昭和14年(1939)の赤マント流言についての考証は、この手の記憶違いとの格闘(!)みたいなものだった。他に2012年4月11日付「現代詩文庫47『木原孝一詩集』(1)」を挙げて置きたい。

*2:まぁ面倒だから、普通は一々そんな風には書かない訳だけれども。