瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(34)

・白銀冴太郎「深夜の客」(10)
 8月8日付(27)の最後に引用した、東雅夫tweetは、灰月弥彦と云う人のtweetに応じてのものであった。
 灰月弥彦の2018年1月24日21:19のtweetは、まさに「『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の件」に触発されて呟かれたものだったのである。5つに分割されているtweetの最後*1に、灰月氏は、

綺堂の作品にさらに原話があるのかは『山怪実話大全』の東雅夫氏の解説では不明となっていますが、『日本現代怪異事典』で1892,3年頃の話として記録があるとのこと。どうですか、この時系列の完璧な一致は!

と呟き、これに東氏も応じて「いずれ4刷が実現した暁には『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の件も加えないと!(笑)」と呟いているのである。
 一体どこから、そんな明治25・26年頃の記録が出て来たのかと、それで朝里樹『日本現代怪異事典』を借りて見ることにしたのである。……この『事典』は随分褒められている。けれども、ちょっと褒められ過ぎだろう。今、具体的な指摘に及ぶのは非常に骨が折れるので、改めて取り組むことにするが、大まかに述べると、――若月保治の大著『古淨瑠璃の新研究』について、横山重が『書物捜索』に数え上げたのと同様の欠点があると思う。と、版元が国文学専門の出版社なのにちなんで、国文学っぽく指摘して置く。
 それはともかく、『日本現代怪異事典』については次回以降に述べるとして、この灰月氏の“発見”と東氏の“反応”を見て、まさかこのまま東氏も第四刷に加筆してしまうとは思いたくないが、――これはちょっと危ないな、と思ったのである。すなわち、灰月氏も2018年1月24日21:19のtweetの3番めに「白銀冴太郎「深夜の客」(1928)および杉村顕道「蓮華温泉の怪話」(1934)」と、それぞれの事件のあった年ではなく発表年の方を添えている。4番めでも「岡本綺堂の「木曾の旅人」(1926)およびその原型「炭焼の話」(1913)」としている。そうすると『日本現代怪異事典』の例も記録・発表された年で(これは後述するようにちょっと調べないといけないが)、末広昌雄「山の伝説」(1992)として並べるべきなのである。そこをごちゃ混ぜにして「1892,3年頃」に「時系列の完璧な一致」を見て「快哉」を叫ぶのは、フライングである。
 事件の起こった(とされる)年代順にすると、次のようになる。発表年を見ても「蓮華温泉」の話群は、いづれ岡本綺堂の作品より後で、典拠とはなりえない。
・明治15、16年(1882、83)頃(岡本綺堂「炭焼の話」1913)
明治24年(1891)以前(岡本綺堂「木曾の旅人」1921)
・明治25、26年(1892、93)頃
 (末広昌雄「山の伝説」1992→『日本怪奇妖怪大事典』→『日本現代怪異事典』)
明治30年(1897)(杉村顕道「蓮華温泉の怪話」1934)
大正3年(1914)(白銀冴太郎「深夜の客」1928)
 伊豆の炭焼の話が一番早いことになる。――岡本氏は作家だから、年記は信用出来ないだろう、と云う向きもあるかも知れないが、杉村氏も純然たる民俗学者と云うより、東氏も云うように「後に怪談作家としても名を成」し、かつ白銀冴太郎がその筆名とすれば、若い頃から週刊誌の懸賞に応募するような、作家的な志向の強かった人物であって、同じ話を年をズラして書いている時点*2で、やはり、そのまま信用は出来ないと思うのである。況や末広氏は100年後の発表、どれだけ確かな根拠が得られたのであろうか*3
 ――個人のtweetにそこまでムキになって突っ込まなくても、と云う人がいるかも知れない。実は、私もそう思っている。ただ、東氏がこれに(第三刷まで出た嬉しさにウキウキしていたからだと思うが)第四刷に加筆しよう、などと応じたものだから、流石にtweetではなく出版物でそれをやっちゃあ不味いだろう、と思って少々しつこく突っ込みを入れて見た次第である*4が、もちろん、作品の発見・紹介をした東氏、そしてこのような作業のきっかけ*5を与えてくれた灰月氏には、本当に感謝しているのである。(以下続稿)
2019年6月5日追記】残念ながら灰月氏tweet は非公開となってしまった。大変、残念であると同時に、再公開を期待する。
2021年4月24日追記アクセス解析に当記事が上がっていたついでに確認したところ、灰月氏tweet が公開に戻っていた。

*1:1つめのtweetの「昨日」と云うのは、2018年1月23日23:41のtweet

*2:この年をズラした理由について、8月11日付(30)には好い加減な推測を示してしまったのであるが、Wikipediaに拠ると大正元年(1912)12月16日に国有鉄道信越線が糸魚川駅まで開業、10月15日に青海駅まで開業していた国有鉄道北陸本線が翌大正2年(1913)4月1日に青海駅糸魚川駅間が開業して北陸本線が全通、糸魚川駅北陸本線の駅となっている。すなわち、大正3年(1914)9月であれば越中富山県)から逃亡する場合、鉄道を利用すれば良いので、徒歩で親不知を抜けて、姫川の谷に入り込み、と云った経路を採る理由がないのである(しかも険阻な山に僅かな平地――そんなにルートが多い訳ではないから、蓮華温泉までに捕まえられそうなものだ)。そして明治30年(1897)とした理由を鉄道で説明すれば、――富山県に官設鉄道北陸線が、明治31年(1898)4月1日に小松駅から延伸して開業した金沢駅からさらに延伸して高岡駅まで開業したのは、同年11月1日であった。すなわち、丁度明治30年まで、富山県から他県へ通ずる鉄道が存在しなかったのである。……もしこの説明で当たっているとすれば、年の変更はいよいよ「事実」に基づく“修正”と云うより、設定上の問題に起因していることになりそうである。

*3:まだ現物を見ていないので、確認の上、詳細を報告することとしたい。

*4:2019年6月14日追記】もし第四刷に末広昌雄「山の伝説」(及び「雪の夜の伝説」)に言及するのであれば、『日本現代怪異事典』に拠るのではなく、当ブログが2018年12月21日付(87)まで続けた検証に基づいて、いえ、一度私に書かせて下さい。

*5:まだまだ終えられそうにないのだけれども。