瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学の修学旅行(1)

・京都旅行会館(1)
 私の中学は所謂マンモス校で、1学年が12クラス500人であった。それでも私の入学した年に学区のうち電車通学が許可されていた辺りに中学が新設されたから減ったので、それまでは16クラスで全校生徒2000人であったのである。
 そうすると、2016年4月3日付「万城目学『鹿男あをによし』(3)」にも触れたように、なかなか1学年全員を収容出来る宿泊施設もないのだが、京都では1つの、当時としては高層のビルに、収まったのである。
 それが京都旅行会館であった。
 yahoo!知恵袋2013年6月24日にこの京都旅行会館について質問している、昭和57年(1982)の中学3年生の修学旅行で泊まったと云う女性(私よりも4学年上、兄よりも1学年上)がいる。この質問に、恐らく京都市民から「本能寺会館」や「京都府旅館会館」では、と云う回答があるのだが、どうも違うように思うのである。――京都市民は絶対に利用しないだろうから、余程近くに住んでいるかしない限り、意識に上らないだろう。地元民だからと云って、当てにはならないのである。
 とにかく、こんな回答が付くような有様だから、私が以前検索したときにも探し当てられず、まるで幻でも見ているような気分になった。まさに、昭和末から平成初年に掛けての情報がネット上には稀薄、と云うことを実感させられることではあった。
 マル鉄マル運のブログ「マル運の日記帳」の記事・2017年02月01日付「徒歩で二回目の京都・三条大橋へ」へのclevelar@のコメント(2017/02/02)に、

中学生の時に泊まったホテルは、確か「京都旅行会館」という修学旅行専門の宿で、四条烏丸のあたりにあったと記憶していますが、ものすごく昔のことなので、知っている人は死に絶えてしまったのかネットにも出てきません(笑)

とあるのも、同じような体験に基づくものであろう。
 ところが、この夏、再び試みるに、幾つかの情報がヒットしたのである。
 まづ、国立国会図書館デジタルコレクションにて、インターネット公開はされていないので閲覧は出来なかったが、「修学旅行」102号(昭和40年3月・日本修学旅行協会)がヒットした。44頁に「修旅生のため京都旅行会館を建設」と云う記事がある。初めから、修学旅行生を収容することを目的として建てられた宿泊施設だったのである。
 実際に泊まったときのことを具体的に書いたものとしては、徳島県徳島市遠藤康友の自転車日本縦断の記録「広い日本そんなにゆっくりどこへ行く。」「1981年8月6日(木)/-くもりのち晴れ-」条

午後8時30分。結局、四条烏丸の角にあった京都旅行会館というホテルに泊まることにした。中居さんが部屋まで案内してくれた。部屋の入り口すぐ左側に風呂があり、正面の一段上がったところに3畳程度の部屋があった。その右側に8畳ぐらいの畳の間が広がっていて、障子があり、開けると、板間があってテーブルと椅子が置いてあった。隅に冷蔵庫もあったが、何にも入っていなかった。窓からは、烏丸通を眼下に見下ろして、せわしなく通り過ぎる車の光跡を目で追った。この広い部屋にたった一人で寝るのか。なんだかもったいない気がした。


 8月6日では修学旅行生もいなかったものか、遠藤氏はこのホテルが修学旅行向けの仕様(冷蔵庫に何も入っていなかったことなど)であることに気付いていない。シーズンでなければ空きがあり、もともと学生相手だから自転車旅行の途次の遠藤氏(21歳)の、飛び込み宿泊も断ることなく、対応出来たのであろう。
 地元の人ならではの記事としては、祇園祭の山鉾町の人・コバやんのブログ「コバやんの祇園祭レポート&雑記帳」の2008-04-29「京都国体とテレカ*1がヒットした。タイトルには昭和63年(1988)の京都国体を挙げているが、京都国体のテレカから初めて、架蔵の京都にちなんだテレホンカードのコレクションを紹介したもので、その中に京都旅行会館のテレカの写真がある(このロゴ、確かに見覚えがある)。説明もあるので本文を引用して置こう。

祇園祭のテレカは沢山発行されていますが、函谷鉾の写っているのは少なく、/写真は、かつて四条烏丸の角に建っていた「京都旅行会館」が発行したものです。
多くの修学旅行生が宿泊した旅行会館も今はなく、近代的なビルとなりました。/写っている函谷鉾は昭和57年(1982)に新調された欄縁飾りがまだない昭和までの函谷鉾です。


 この他にも幾つか、修学旅行で泊まったことを述べたブログがヒットしたが、詳細に及んでいないので割愛する。
 さて、私は何人で泊まったのかも覚えていないくらいだが、7階だか8階だか、随分(当時としては)高層階だったように記憶している。貸切状態だから到着したとき、館内には校歌が流れていた。――誰だか知らないが悪い奴がいて、水風船が落ちて来たと言って通行人が怒鳴り込んで来たそうで、とばっちりを喰らって怒られたことを覚えている*2。(以下続稿)

*1:2019年12月13日追記】「コバやんの祇園祭レポート&雑記帳」も ameblo に移行したのでリンクを貼り直した。旧リンクブログ「コバやんの祇園祭レポート&雑記帳」の「2008/04/29「京都国体とテレカ」も、一応保存しておく。

*2:2019年10月18日追記「自殺データベース (7) 昭和40年代の自殺 (1965-1974)」1967年6月29日条に「評論家、中野好夫の次男、朝日放送報道部員、■■■が京都市下京区四条通烏丸西、京都旅行会館から飛び降り自殺」とあることに気付いた。実際に高層階の窓から通りを見下ろした記憶があるから少々実感がある。しかし修学旅行生が滞在中だったらどんな騒ぎになったことだろう。