これまで、昭和50年(1975)7月から昭和55年(1980)3月まで私が過ごした場所を「地方都市」として来た。2018年3月28日付「回想の目録(1)」にて「中部地方某市」としたのだけれども、もう40年も前のことであり、7月3日付(6)に述べたような恥ずかしい思い出も少なくないのだが、その後の私の恥ずべき人生に比すれば大したことではない。私は覚えていても、人は私のことをそんなに覚えていないであろう。――今更隠し立てしても仕方がないような気がして来たのである。
昭和55年(1980)4月から昭和58年(1983)3月まで、兵庫県で3年間過ごし、そこでもそれなりに、いやむしろ得意の絶頂と云うべき時期だったように思うのだが、しかしその後の転落振りが激しいので、どうも、転落のための助走と云う印象があって余り思い出したくないのである。その意味で「地方都市」の時代が、今の私には最もストレスなく思い出せる時期なのである。
2012年4月11日付「現代詩文庫47『木原孝一詩集』(1)」に述べたように、小学4年の1年間、担任の意向で詩を書かされていた。その詩は手書きの版下*1の学級新聞に掲載されて、私も何回か巻頭詩に選ばれたが、他の詩は覚えていないのに1つだけ覚えているのが、題して「静岡県」なのである。
もちろん静岡県を、駿河・遠江・伊豆を縦断して全体像を描き出した、などと云う壮大な作ではなく、原稿用紙1枚、題と作者名の分を除くと17行かそこいらの詩で、せいぜい「地方都市」と駿河湾と富士山の辺りについて書いただけなのである。しかし小学生らしい実感が評価されたのだろう。
それに、兵庫県民に「地方都市」の名前では通じない。富士山や駿河湾も入れてあるし。
しかし、今だったら通じるかも知れない。その、私の懐かしい町の名前は、静岡県清水市である。
けれども、『ちびまる子ちゃん』の、と云われると、ちょっと違う。――今や、蒲原や由比まで清水になってしまったようだが(しかも何故か蒲原の方が先に)当時は庵原郡蒲原町・庵原郡由比町で、別の町だった。そして既に清水市に編入されていたけれども、興津は別だと云う意識がある*2。そして、私の住んでいた地域も、やはり清水の中心部とは(興津ほどではないが)ちょっと違うような意識があったのである。(以下続稿)