瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(162)

・「經濟雜誌ダイヤモンド」第二十七卷第七號(3)
 昨日の引用について、もう少し考察を加えて見ましょう。――「赤マント」と云われれば、マントが真っ赤なのだろうと思うのですが、そうではなくて「赤裏のマント」である、すなわち、黒マントの裏地が赤であると云う説は、これまでにも幾つか、目にしております。
 2016年8月1日付(151)に見た、「サンデー毎日」第十八年第十三号(三月十二日号)に掲載された「東京日日新聞」編集局主幹・阿部眞之助「赤裏のマント」が早い時期のものです。同様の説は昭和14年(1939)6月下旬から7月上旬に大阪でこの流言が広まったときの「大阪毎日新聞」の記事、2014年2月10日付(110)に見た、「大阪毎日新聞昭和14年7月1日付第20194号の「童心を傷ける"赤マント"の流言」にも見えますが、これらは「サンデー毎日」に拠って書かれたらしく、2014年2月8日付(108)に見た「大阪毎日新聞昭和14年7月1日付(6月30日夕刊)第20194号の「とんでもない赤マントの流言」では、東京での流言の内容と云う扱いなのです。従って、実際に大阪でこのような内容が流行っていたのかは疑問で、以前にも述べましたが、或いは「大阪毎日新聞」の記事が典拠になって大阪での流言の内容を変えてしまった可能性も考えられます。
 その他の東京の例は、2014年2月8日付(108)の最後に纏めて置きました。大宅壮一「「赤マント」社会学」と北杜夫『楡家の人びと』、そして昭和16年(1941)のことらしい中島公子「坂と赤マント」ですが、ここにもう1つ、最も早い時期の例を得たことになります。
 「鋭利な刄物で不意に喉首を狙う」と云うのは他に見た記憶がありませんが、「吹矢」については上記、阿部眞之助「赤裏のマント」とその影響を受けたらしき「大阪毎日新聞」の記事、さらにその影響の可能性がある、2014年2月13日付(113)に引いた「大阪朝日新聞昭和14年7月8日付第20735号の記事、2014年11月4日付(142)に引いた兼田祐吉「街頭紙芝居から生まれた赤マント異変」を見ています。そしてこれも、東京の新聞には見えないのですが、やはりごく早い時期に、東京でも行われていたのでした。
 一番奇怪に感じたのは「二人の若い婦人と一人の警察官が殺されたという被害者の数だけは、不思議に一致している」との一節です。「不思議に一致している」と云うからには、近藤氏の周囲の人々は、他のことでは区々でも、犠牲者の数だけは一致していたことになるのですが、これまで見た限りの資料には見当たりませんでした。
 それと同時に「犯行の場所」つまりこの噂の発生地として、初期の新聞記事に見えた「板橋」や「飛鳥山」だけでなく、「品川、麻布」と云う、これまで見た資料に見えなかった地名が挙がっていることが注意されます。(以下続稿)