・岡本綺堂「影」(8)
さて、戯曲では、小説と違って地の文が使えません。「木曾の旅人」は台詞の間に適切に差し挟まれた地の文が、緊張感を高める効果を上げていたのですが、戯曲では台詞か、舞台の様子や登場人物の動きを説明するト書きだけになります。上演するとなれば演技、特に台詞によって観客に状況を理解させないといけません。台詞で理解させるとなれば、それは観客にも、他の登場人物にも分かるような説明である必要があります。
TVの連続ドラマのように、決まった人物たちをずっと見ているのであれば、極端な話、台詞がなくても状況が視聴者にも伝わるでしょう*1。
しかしながら、本作の場合、「薄気味の悪い訪客」である旅人はもちろん、その他の登場人物たちの背景も、観客は承知していません。9月21日付(62)に見た芸妓おつやの自己紹介のように、誰かが語らないといけません。いえ、その誰かがおつやなのです。おつやは「木曾の旅人」の地の文が担っていた役割を引き受けて、まるで“説明台詞”を喋るために無理に登場させた人物のようになっています。ただでさえ不自然な登場のさせ方をしている上に、気が強くずけずけ物を言うキャラクターにその役を担わせたのですから、怪異に気付いて急に静かになる、と云う効果以上に“説明台詞”の強調と云う弊害の方が大きい、と云わざるを得ません。
とにかく晩年に至って往年の名作「木曾の旅人」の緊張感を自ら破壊するような戯曲を書いてしまった、と云う印象で、2011年1月4日付(03)に養嗣子・岡本経一が述べているように、綺堂にとって「木曾の旅人」と云う「一つの作品」には、最初にそのヒントとなる話を聞いて以来「五十年」近い「歴史」があった、それだけ心にあり続けた主題であったことは分かるのですが、やはり「木曾の旅人」が頂点であったことを確認すると云う価値に止まるようです。
もし、今後本作を再演するとすれば、おつやの排除が条件となるでしょう。しかし、おつやを排除してしまえば普通に「木曾の旅人」から新たに脚本を練れば良いだけの話になってしまいます。――せめて、おつやがもう少し控え目な性格であったら、例えば、236頁8〜9行め「直ぐ下の村で」重兵衛の「女房や娘は百/姓をしてい」る*2と云うのですから、急用があって重兵衛の妻か娘(太吉の母か姉)が訪ねて来た、と云うことであれば、状況を説明するような台詞があったとしても、ここまで五月蠅く――所謂“説明台詞”とは、感じられなかったでしょう。
そう云えば「木曾の旅人」の上演、映像化作品はあるのでしょうか。もしあるのであれば、見てみたいし、出来ると云うのであれば、プランを聞いてみたいと思います。
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本作は「木曾の旅人」の「五十年の歴史がある」系譜を辿る、と云うコンセプトの上からは、逸することの出来ない作品です。しかしながら、そのようなコンセプト抜きには(それこそ『綺堂全集』が実現するのでもなければ)決して復刊されるような作品ではなかったろうと思われます。
その意味からも、これ以外にない復刊の機会を自ら仕掛けた東氏の功績に、改めて感謝したいと思うのです。(以下続稿)