瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(09)

 美術大学関連の怪談について、一昨日から眺めている2ch(5ch)のスレッド「大学にまつわる怖い話」の続きで、今回は「100」番の書き込みと、それに対する「103」番の批判について検討して見ます。従って、今回も「閉じ込められた女子学生」の話題には及びません。過去の書き込みのうち「73」番までは10月10日付(07)に、「103」番までは10月11日付(08)に引用してあります。
 「37」番と「98」番に「野猿街道」の話題が出ていますが、これは恐らく「柚木街道」のことを云っているのだろうと思います。野猿街道野猿峠を通る東京都道160号線で、多摩美術大学から2km以上離れたところを通っています。――八王子市鑓水を横断する幹線道路は野猿街道と下柚木交差点で分岐する東京都道20号線で、下柚木交差点から国道16号線東京環状)の鑓水交差点までの通称が「柚木街道」なのですが、あまり一般的な呼称ではないらしく卒業生たちも何となく「野猿街道」と呼んでいたようです。
 しかし部外者からするとどうも「野猿街道」と呼ぶのは抵抗があるので、差当り「都道20号」と呼ぶこととします。
 さて、この「98」番から「100」番までの投稿者ですが、昭和59年(1989)に多摩美術大学に入学し、昭和61年(1981)まで2年間、都道20号の多摩美術大学入口から東へ250mほど行ったところにあったアパートに住んでいたようです。――立教大学助教授教え子殺人・一家心中事件については、殺人事件を扱った本でも読みましたし、TBSで関口宏司会でやっていた「女神の天秤」と云う番組で取り上げられていたのも見ましたが今は差当り、妙に充実している Wikipedia の「大場啓仁」項に拠ると、教え子殺しの現場は大場助教授の恩師の細入藤太郎教授の別荘で、その個人礼拝所が「細入藤太郎」項に拠ると、現在、日本聖公会鑓水聖ケネス教会となっています。母屋は別にあって、現在でも同じ位置に建物があるのですが当時のままかどうか分かりません。遺体が発見されたのは別荘の南の丘陵地ですから、やはり多摩美術大学の東300mくらいの範囲でしょう。
 ですから「98」番に云う「大学の坂道」が具体的に何処を指すのか私にはイメージ出来ません*1が、「大学の」と云うほど近くはないものの、とにかく「63」番の云う通り「T美近くの山」であることは間違いありません。
 「37」番が書き込んだ「72」番は、立教大学助教授教え子殺人事件を「例の道了堂の件。近くというのは嘘。直線距離にして1、5kmも離れてる」として、多摩美術大学とは距離的に無関係であると強調し、「37」番の書き込みと思われる「103」番でも「もう道了堂とT美を界隈としてひとくくりにすんのやめれ。直線距離にして1,5kmも離れてんだぞ」と繰り返しているのですが、実際は道了堂と立教大学助教授教え子殺人事件が距離的に無関係で、事件はむしろ「T美」の「界隈」の出来事なのです。当然「63」番にあったように、OBの中には昭和48年(1973)9月12日から昭和49年(1974)2月28日に掛けての捜索期間中に、「死体探しに検土杖もった警察の団体が一列になって山を歩いてるのを見た」人もいたことでしょう。
 それよりも不思議なのは、「100」番の妙に具体的な書き込み、「98」番と「99」番の後半を(若干の錯誤を含んでいるのは確かだとしても)何故「37」番は頭ごなしに否定し去ろうとしているのか、と云うことです。
 「37」番も都道20号の拡幅を知っている世代だとすると、「100」番とそう変わらない時期の学生と云うことになりましょう。――「80年代後半T美在学組」と云う「79」番めの書き込みも「37」番らしく思われます。そして都道20号の拡幅が「100」番の云う通り昭和60年(1985)昭和61年(1986)頃のこととすると、「37」番は「100」番の、1学年か2学年、後輩と云うことになりそうです。私が「79」番めも「37」番のように感じるのは、ここまで「37」番め「72」番めと「先輩」格として話題を取り纏めるような書き込みをしていたのと共通していると思うからです。そして、折角「79」番めの書き込みで自分が最終的に捌いて見せた恰好になっていたこの話題を、無神経な「100」番のために根底から混ぜっ返されたように感じたことで、「やめれ」「さんざん既出の話題を出すな」「他人レスもきちんと読めよな」と云った物言いになってしまったように思われるのです。
 しかしながら「100」番の書き込みはただの「既出」の蒸し返しではありません。立教大学助教授教え子殺人事件に関してはむしろ「37」番よりも正しく、かつ具体的です。
 道了堂の件も、ただ無神経に「ひとくくりに」して持ち出した訳ではないでしょう。道了堂で霊能者が「白いブラウスの女の子を目撃し」た、と云うのに、被害者の服装と、アパート2階の住人が目撃した幽霊の服装との共通点を感じて持ち出したのだと思われます。道了堂でも昭和38年(1963)9月10日に殺人事件が起こっていますが、被害者は堂守の81歳の老婆で、若い女性が出る謂れがないからです。
 ところでこの「1983年暮れか84年の春ごろ」放映されたと云う「アントニオ猪木が10人ほどの子供を連れて日本各地の心霊スポットを調査するという特番」は、2ch(5ch)のスレッド「昔見た怪奇、心霊番組を語ろう」に、2009年6月18日未明に「544」番が、

記憶が曖昧なのですが、25年位前の心霊番組で、放送の最後に司会かレ(リ)ポーターが子供達と幽霊が出るという墓場に出掛けた際に人魂に遭遇するのですが、
実は一般人のおじさん(この人の表情が無機的なのが怖かった)が釣竿からぶら下げていた…という映像で終わった番組を知りたいのですが、ご存知の方いらっしゃいませんか?

と問い掛けたのに対して、朝になって「546」番が、

>>544
同じ番組かどうかわかりませんが、/アントニオ猪木が子供達と・・・という展開を見た覚えがあります。/確かに25年ぐらい前だったような気もしますね。/ただ、番組名などはちょっと記憶にありません。お力になれず申し訳ない。

と答えているのがそれであるらしく、「100」番の述べている年代にも一致します。
 これに対して19日未明の「547」番めに、

>>546さん。
>>544です。
レスを見て、私の頭の中にあれっもしかしたら!?という感じがしてきたので、それだけでも充分ですよ。/ありがとうございます。

と返信がありました。そして1ヶ月以上経った7月26日の朝「551」番が、

>>546-547
それってテレ朝のやつじゃないかな/猪木と子供数人がどっかの島に行くって番組/そして肝試しをするってパターンだった気が

と返し、さらに2010年5月26日の夕方に「587」番が、

>>544
懐かしいなあ。夏休みに見た覚えがある。/番組の最後に猪木と子供たちが森を肝試し。/人魂発見!?でパニック。/しかし猪木が人魂を捕獲。実はスタッフの悪戯でした〜ってオチだったと思う。
 
同じ番組でやってた「死んだ人間は、こうやってあの世に行く」というアニメーションにも/ぞぞっとしたな。

と書き込んでいます。また Wikipedia ですが「アントニオ猪木」項の「テレビ」の節を見るに、

水曜スペシャルテレビ朝日
 ・『恐怖の無人島に挑む7人の少年ターザン・隊長アントニオ猪木パラオ島大探検』(1981年11月25日)
 ・『挑戦!アントニオ猪木と少年シルクロード冒険隊!!』(1984年9月5日)

とあって「551」番は前者のようです。そして、どうやらここに挙がっていないものもあるらしく、ハイファイパパのブログ「今日のひとネタ」の2012年4月26日付「アントニオ猪木が一緒だよ」には「30年ほど前」の「心霊スポット巡り アントニオ猪木が一緒だよ」が取り上げられています。「100」番の云う特番はこれかと思ったのですが、「夏休み特別企画」とありますから季節が合いません(「587」番とは合います)。私は残念ながら(見なかったのか)全く記憶しておりません。(以下続稿)

*1:繰り返し「たまや」が登場しますが、まづ都道20号のどちら側にあったのかが分からないので、イメージの起点として機能しないのです。