瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(12)

 それでは前置きが長くなりましたが、2ch(5ch)のスレッド「大学にまつわる怖い話」の、女子美術大学の話に戻りましょう。
 屋上で学生が焼身自殺した話は、10月10日付(07)に見たように当初、専ら多摩美術大学の話が書き込まれていました。そこに2004年6月1日に「62」番が「J美でもあった」と書き込んだものの反響はなく、10月11日付(08)に引いた2004年6月4日に書き込まれた「77」番が時期と遺書を示して「J子美の間違いだろ」とアピールしたところ、多摩美術大学の卒業生からも反応があったのでした。その後、多摩美術大学の卒業生たちは内輪もめ(?)を起こしてスレッドから姿を消してしまい、10月9日付(06)に引いた「296」番が2004年9月29日に書き込まれたときには、何の反応もありませんでした。自分の学校にも似た話がある、と云う他の大学の学生・卒業生からの反応もありませんでした。しかし1件だけ、反応した書き込みが、やはり随分経ってから書き込まれるのです。
 すなわち、2005年1月4日午後に「382」番が、

>>296
初めてこのスレ見たんで禿げしく亀だけど/>>77さんも書いてるようにJし美の屋上焼身自殺はほんと。/当時附属行ってたんで覚えてる。みんなで黙祷した記憶もある。/1986年ごろだったと思う。
 
ただ遺書の話は初めてきいた。

と、まづ「296」番を見て、それから遡って「77」番も見て、書き込んでいます。「77」番は卒業生なのかそうでないのか、素性が分かりませんが、ここに初めて事件当時生徒だった人の書き込みがありました。「付属」と云っても中学校と高等学校がありますから、昭和61年(1986)1月に高校3年生として川奈まり子と同じ昭和42年度生れ、中学1年生として昭和47年度生れです。ついでに短大生なら昭和40年度生れが2年生、学部生なら昭和38年度生れが自殺者と同じ4年生と云うことになります。つまりこの、昭和38年(1963)4月から昭和48年(1973)3月までの10年間に生まれた世代が、焼身自殺に在学中の出来事として接する機会があったことになります。(以下続稿)