瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(13)

 ここで川奈まり子実話怪談 出没地帯』の記述の、10月8日付(05)に引いた27頁12行めの続きを眺めて置きましょう。28頁5行めまで

‥‥。絵画を専攻していた学部の四年生が卒業制作に/行き詰まり悩んだあげく、当時「時計塔」と呼ばれていた校舎の屋上に昇り、そこで/可燃性の液体をかぶったうえ、自分の体に火をつけた。キャンパスの周囲は古い住宅【27】街で道が狭く、最終的には十四台も消防車が駆けつけたというが、消火されたときに/は遺体はすっかり炭化していたという。
 先輩や同級生の中には、そのときたまたまキャンパスに居合わせて、人が燃える炎/と煙や、その後の消火騒ぎなどを目撃してしまった者もあった。また、時計塔の屋上/には、自殺に痕跡がいつまでも残っていた。


 川奈氏の在学時期については10月8日付(05)に生年から勘定して見ましたが、Wikipedia の略歴の典拠になっているfacebook「川奈 まり子さんの自己紹介」の「学歴」を見るに、

女子美術大学短期大学部
1988年卒業 · グラフィックデザイン教室 · 造形学科
女子美術大学付属高
1986年卒業

と明示されていました。
 そうすると、事件は「自殺データベース」によって昭和61年(1986)1月26日のことと判明していますから、やはり川奈氏が高3の、3学期と云うことになります。
 私は川奈氏の4学年下になりますが、高3の3学期には第1回の大学入試センター試験の自己採点で登校したときのことを覚えているくらいで――まぁ、3科目受験したうち英語の点が100点満点の世界史より低く、国語の半分以下だったと云う*1その後の記念受験を決定付けた日だったから、忘れようもないのだけれども、後は、卒業式にはもちろん出ましたが、もう殆ど覚えておりません*2。いえ、川奈氏の記憶を疑っているのではなくて、……高3の3学期に登校するのだろうか、と思ったのです。
 いえ、付属高等学校で、何割かが内部進学するのでしょうから、3学期も登校させていたのかも知れません。私が一浪の後進学した大学では、附属から来た連中が私らのような地方から一般入試を経て入学した学生とは、かなり違った空気を醸していて、どうも近寄りづらかったのを覚えています*3。彼等は、内部進学を決めてしまって3学期にも登校していたのでしょうか? 仲良くなれなかったので確かめる機会もありませんでしたけれども。
 私が幾つかの高等学校で非常勤講師として勤めた頃には、もう推薦入試と云う青田買いならぬ青田刈り(と、受験勉強と云う無理にでも知識を詰め込む機会を与えない悪習を、敢えて呼びたい)が横行していましたので、附属でなくても既に進路が決まっている生徒も多く、3学期に1月だけ授業をやって学年末考査をやったところもありますし、1月だけ全くやる気のない生徒を相手に授業をしたところもありますし*4、やはり3学期には授業をやらないところもありました。――こういった辺りが、昭和末年の附属高ではどうだったのかが、私などには興味深いところなのですが。
 川奈氏が「時計塔の屋上に」見に行ったのはいつなのでしょうか。直後、卒業までの慌ただしい時期に、それでも大学付属の高等学校は公立高校よりは余程呑気で、見に行こうと云うことになったのでしょうか。時計塔は大学の方の校舎のようですので、もちろん川奈氏が内部進学した短大も大学・付属高校と同じ敷地にあるのですが、やはり付属であっても高校生は大学・短大にはあまり出入りしないだろうと思うのです。ですから、内部進学後に「いつまでも残ってい」るのを見に行ったようにも、思われるのです。(以下続稿)

*1:世界史と国語は各1問間違えただけで学年トップだった。――何事も極端なのである。

*2:第2釦を下さい。と言われることも(別に高校に限らず)絶えてなかったので。

*3:私が近寄り易い人間だったのか、と云う問題がありますが。

*4:学年末考査はなく、小説の映画化作品を見せるのがメインだった。他の教科でもビデオを見せてばかりいるので一部の生徒から苦情が出た。別の高校でも同様だったが、私は同僚に教えられてディベートをしたり、自分の勝手な趣味で自由研究みたいなことをさせて、文集を作ったりしたものだった。……上手く行ったとはいいづらいのだけれども。