瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

校舎屋上の焼身自殺(12)

 2ch(5ch)のスレッド「美大の幽霊対決」の続きを見て行くと、10月15日付「閉じ込められた女子学生(12)」等に取り上げた2ch(5ch)のスレッド「大学にまつわる怖い話」と同様に、多くはないのですが女子美術大学に関する話もちらほら書き込まれております。
 まづ、2001年8月1日夜に「89」番が、

女子美短大の封鎖されてる時計台でるよ。
あと戦争中に病院だった寮もすごいよ。

と書き込みました。平成初年には屋上に出られる建物も多かったと思うのですが、その後、施錠されて出られなくなった建物が増えたように思います。――私の高校非常勤講師生活での屋上経験と云えば*12017年10月27日付「3人のヤマンバ(1)」に書いた、共学校の商業科の31人32脚だかの練習に付き合うために屋上に行ったのが、公式(?)に屋上に行った唯一の機会で、他に、女子高時代に、私は学校周辺の図書館に昨日登場してもらった同僚の自転車を借りて通っていたので、長期休暇中も返却期限ごとに、まづ駅から女子高の講師室に行って、荷物を置いて同僚の机の抽斗にある自転車の鍵を借りて出掛けるのが常だった。そして、部活もやっていなくて教職員の姿も殆どない晴れた日の昼に、あれは確か年度替りの時期だったのだろう、何故、屋上に行ってみようと思い立ったのかも覚えていないのだが、行って見ると屋上に出られたのである。屋上にある空調設備の点検でもしてたのだろうか、それとも清掃だったのだろうか、屋上に誰もいなかったので何故ドアが開いていたのかも分からなかったが、誰もいなかったので大胆にも(?)屋上に出て、それはそれは素晴らしい開放感だった。屋上に突出している書庫とフェンスの狭い間を抜けて反対側の広場に出たときには、いよいよ秘境を探検しているような気分だった。――その後、何かの機会に屋上に通じる階段を4階まで上がったときに、ついでにこっそり屋上に出るドアのノブを捻って見たことが何度かあるのだが、もちろん押しても引いても開かなかったのであった。……今となってみると、何だか夢で見たことを現実と間違えたような、そんな気がして来るのである。
 しかし、確かにあれは現実だった。年度の頭は、一番気楽な時期である。受持のクラスは決まっているが、どんな生徒がいるのかは分からない。何の懸案も懸念もなく、雇用も継続になって(当時は雇い止めを始めるとは思っていなかったのだけれども、それでも単年度契約だから、いつ打ち切られるか分からないのである)気心の知れた講師室の面々と、また向こう1年気楽に過ごすのだと思うと、それはそれは良い気分だったのである。屋上は真ん中に書庫が突出していて、東と西が広場のようになっているのだが、階段は東側に通じているので、西側に回り込んでしまうと死角だから、私がいることに気付かずに施錠されてしまう可能性もある、と(バレたら怒られそうなことを平気でやりつつも、それなりに思慮深い)私は考慮に入れて、西側をさっと一回りして東側に戻って来るまでのスリルを、時間にしたら3分もないような短時間だったのだけれども、今でも何となく覚えているのである。結局私が屋上に出たことは誰にも気付かれずに済んだのだが、あのとき締め出されていたら「閉じ込められた女子学生」に似たような状況で、閉じ込められるよりはマシだけれども、だから何とかなるのかと云うと、今、Google Earth で見るに、下の階にこっそり外から移るのは相当難しそうな構造なのである。そうすると私は携帯電話を持っていなかったから、誰か外の人に気付いてもらうしかない。――かれこれ考えると、高校時代の遠足で班から抜けて単独行動をしていたとき*2と同じくらい、危ない橋を渡っていたような気がして来るのである。
 それはともかくとして、平成13年(2001)頃にはもう屋上には出られなくなっていたでしょう。「でる」から「封鎖され」たのではないと思います。それから「寮」は和田寮のことと思いますが、2018年10月9日付「閉じ込められた女子学生(06)」にて確認したように、昭和36年(1961)4月完成です。
 続いて8月18日午後に、女子美術短期大学の卒業生らしいHN「きてぃ」が「139」番めに、

女子美短大の図書館の屋上は以前/教授に厳しく講評された油の学生がペインティングオイル? /をぶっかけ発作的に自殺した。
学生の頃いってみたら焦げ跡があって、その上にコンクリート/が塗り込まれていた。→雑だった
 
出るらしいよ。図書館。
 
そんでもって学食あった校舎は昔学生運動してたころの/抜け道があって、大きい鏡でおおわれているって。
 
幽霊ばなしじゃ無いか。

と、やや詳しく書き込んでいます。
 しかし10月25日付(06)に見た、鶴川学「恐怖の"焼身自殺実況ビデオテープ"」に取り上げられている新聞記事を見る限りでは(短文ですが)自殺した学生は以前から悩みを口にしていたようで、しかも10月25日付(01)に引いた、自殺者の友人の[mixi]への書き込みその他に拠ると、「ついに世界は開かれた」と云う言葉を遺していたそうですから*3、覚悟の自殺と云うべきでしょう。

*1:思えば、私には高校までの、屋上に関する思い出が全くない。――告白されたとか、恐喝されたとか忘れられない思い出がないからなのか、それとも行く機会がなかったからなのか。……2015年8月9日付「吉田秋生『櫻の園』(1)」に取り上げた、私の浪人時代に公開された映画『櫻の園』には、屋上でのトレーニングや、語り合う場面などがある。

*2:2016年4月3日付「万城目学『鹿男あをによし』(3)」等に述べた。

*3:この言葉にも小異があり、かつどんな按配で遺していたのかも説明が一定していないので、追って整理して見るつもりです。