瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(165)

 昨日まで女子美術大学校舎屋上の焼身自殺について、当時の記事を確認して見ました。昨日、仕事の帰りに縮刷版を再度確認し、一部誤りを修正しました*1。昨日のうちに入力して置くつもりだったのですが、うっかりして今頃入力しております。
 それから先日、データベースの使える図書館に出掛けて、「産経新聞データベース」と「中日新聞東京新聞記事データベース」を閲覧して見ました。しかしながら、前者は「1992/9/7〜」、後者は「1987年以降(東京新聞は1997年以降)」とのことで、昭和61年(1986)の記事はまだカバーされておりませんでした。そこで近頃当ブログで検索が多いらしい「赤マント」で検索して見たところ、「産経新聞データベース」に以下の記事がヒットしました。
 後3ヶ月で赤マントの流言から80周年なので、出来れば何か纏めたかったのですが、その暇も依頼もありません。いえ、依頼があっても応える暇がないのですけれども、これで誰かが書いたりしたら厭だなぁとそんなことを考えてしまうのです。
 それはともかく、ヒットしたのは「2006-01-18・東京朝刊・朝刊文化」に出た「【現象へ】子供を狙った犯罪 赤塚行雄氏に聞く 希薄な近隣"守る目"弱体」という記事です。他の新聞データベースと違って紙面のイメージが表示されないので、どのようなレイアウトで掲載されていたのかは分かりません。しかし原紙もしくはマイクロフィルムの閲覧に行く暇はしばらくなさそうなので、差当り記事本文だけ見て置きましょう。
 これは平成18年(2006)1月18日(水)付朝刊文化面に掲載された「社会評論家の赤塚行雄氏」に対するインタビュー記事(聞き手・堀晃和)です。

 「戦前、私が小学生のころ、赤マント事件というのがありました。本当にあったわけではなく、通学の際、学校の手前の松林の辺りで猛烈に足が早い赤マントの怪人が現れて、追いかけてくるといううわさです。みんな怖がって足が進まない。そんなとき、近くのたばこ屋のおばちゃんが『大丈夫、大丈夫』と言って松林を通り抜ける際に付き添ってくれました。
 そういううわさは日本のいたるところであったのではないでしょうか。それらは、実は子供たちに注意を喚起する現象だったのではないかと思うのです。今の時代はそういううわさを聞きません。つまり、この辺りは危ないというような警戒心が醸成しにくくなっているのではないでしょうか」


 後に附されている略歴によると赤塚氏は横浜生れです。
 このインタビューについては、最近更新されていない「女子リベ  安原宏美―編集者のブログ」の、2006-05-02「おじさんの見分け方」が全文引用して批判しています。私は安原氏が着目している点とは別に、まづ「赤マント事件」がある時期に一時的な流行であったことをきっちり調べずに曖昧な記憶のみに頼っていることが問題だと思います。加えて、神奈川県下で赤マントの流言が行われたのは、2013年12月30日付(70)に見たように、山中恒(1931.7.20生)が平塚では昭和14年3月であったことを報告しています*2が、横浜はもう少々早かったかも知れません。とにかく赤塚行雄(1930.9.24〜2015.3.29)が小学2年生から3年生に進級する時期のことで、そんな正直なところ視野狭窄に決まっている子供の頃の体験のみに基づいて導き出した「実は子供たちに注意を喚起する現象」と云う解釈と、「今の時代」には「そういう」ものが欠如しているとの意見は、ともに思い付きの域を出ないでしょう*3。現象としては昭和54年(1979)の口裂け女に近いので、戦後にだってそういう「現象」があった訳ですが、赤塚氏はそういったことに全く思いを致していないようです。
 こういった辺り、私の蒐集した資料を提示して記憶している人が生きているうちに、しっかり確認してみたい気もするのです。来年には流言の頃に生まれた人が満80歳になってしまうのですから、しっかり記憶している人は90歳より上になってしまうのですから。(以下続稿)

*1:他紙が「東京都杉並区和田」としているのを「毎日新聞」のみ「東京杉並区和田」をしていたのに気付きませんでした。筆写の際に地名は「東〜田」と書いて済ませて置いたので、打ち込んだ際に1行の字数を確認して、おかしいと思ったのですけれども。――いえ、そういうチェックをするために行移りの位置も控えているのです。

*2:2019年8月6日追記2019年6月22日付(180)に述べたように、山中氏がこの流言に接したのは昭和14年4月以降、新年度に通学を初めてからであった。

*3:「赤マント事件」と云う(恐らく当時小学生の赤塚氏は聞いていなかったであろう)名称からして、世間で「事件」と呼ばれるだけの広がりがその当時から認識されていたことになるはずなのですけれども、残念ながら赤塚氏はその方面への追究をしていない訳です。