瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

朝里樹『日本現代怪異事典』(10)

浅川駅(9)
 特に、いえ、全く興味のある話ではないのですが、始めたら地理と絡むので何だか長たらしくなってしまいました。私は飽くまでも現実に興味があって、怪異については何故そんなことを思い付いたのか、どこをどんな風にいじっているのか、そんな興味しか持ち得ません。この話の場合、道具立てが現実にある路線で、過去に現実にあったものを使っていることが、私の興味を刺激したことは確かです。全く架空の駅だったらそもそも何の感慨(?)もなかったろうと思うのです。
 さて、私はこの話を一応「怪異談」と云う分類で扱って来ましたが、実は、これら朝里氏の云う「異界駅」の話、これは怪異なのか、と思っているのです。
 思えば確かに、私の中学校にも異界に行く通路みたいな場所だか物体だかがありました。詳述する機会もあろうかと思いますので今、略述してみますと、大きな眼の絵が飾ってあって、その前で夜中の12時に目を瞑ると四次元に行って帰って来れる、とか云うような話でした。――当時、私は聞いた話を全て記録していて、3年生の夏休みにはそれまでに聞いた話を全て冊子に纏めて提出し、11月15日付「美術の思ひ出(4)」に述べた社会科研究発表会に出陳されました。しかし、この四次元の話は記録していません。私はこういう全く信じようのない話と、ピアノが鳴るとか絵が動くとか幽霊が出ると云う話を無意識(?)に区別していて、これは記録するに値しない与太話だ、と決め付けていたらしいのです。
 何故なら、恐くないからです。――本当に行ったと言う人に会ったことがありません。行ったまま帰って来なかった生徒について具体例を聞いたこともありません(もちろん曖昧な例も聞いていません)。当然のことです。ピアノとか時計とか教室とかに纏わる通常(?)の学校の怪談ならば、まぁ錯覚の範囲で片付けられそうですが、異世界まで行って、だのと云うのは風呂敷を広げすぎて、ちょっと私の好む馬鹿馬鹿しさの範疇を超えて、馬鹿げているとしか思えないのです。(以下続稿)

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【12月27日附記③】一昨日付と昨日付と今日付の記事は12月27日の晩に投稿した。つまり、明日と明後日と明々後日投稿出来ないので先に済ませて置いたのである。
 さて、『日本現代怪異事典』の項目の立て方については、8月22日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(39)」に疑問を表明して置きました。この「異界駅の怪」の一端を摘んで見て、改めてその感を強くしました。これら「異界駅」は、体験したとする人物がネット掲示板に投稿したものが多いようです。つまり、ごく個人的な体験で、その後、同じところに行き着いたとする人物も(話によっては続篇があるようですが)殆どいないようです。そうすると、これは個人的な「夢」や「幻覚」と何が違うのでしょうか。12月28日付(08)に引いたまとめサイトのコメントに指摘されていたように、そもそも創作の可能性も高い訳です(と云うか私には創作としか思えない訳ですが)。そんなものを一々拾ってどうするのだろう、と思うのです*1。「異界駅」項に纏めて記述すれば良いではないか、と、そんな風にも思うのです。
 それ以上に疑問なのは、こんな個人的な体験談を一々立項するならば、この事典が殆ど無視している、個人的に因縁のある人物の幽霊に悩まされたと云う、それこそ無数にあるはずの体験談はどうなるのか、と云うことです。どうしても、どうでも良い妙な事柄を一々拾って、既に3月27日付「事故車の怪(7)」にも触れましたが、もっと具体的な怪異であるはずの「日本現代」幽霊「怪異」体験談の大半(と云うか殆ど?)を拾っていないのはどうなのか、と思えてならないのです。

*1:創作――小説との線引きも、この「異界駅」の話群については問題になろうと思います。