・特別展図録『私がわたしであること』(2)
昨日の続き。
51頁(頁付なし)も全面に写真で「鴎外博士のお子様 観潮楼の縁側で 「婦女界」12巻3号 大正4年9月」茉莉(満12歳)類(満4歳)杏奴(満6歳)。
巻頭論文・巻末論文は3段組。
4〜5頁、金井景子(早稲田大学教授)「『遺された庭で育まれた/「わたし」たちを訪ねる/―展覧会「私がわたしであること」に寄せて―』」は「発表媒体」である雑誌「国民之友」「スバル」「冬柏」を「彼女たちを育んだ庭」に見立てて説明し、この特別展の導入としている。
52〜57頁、山崎一穎*1(跡見学園理事長、森鴎外記念会顧問)「私がわたしであることを育んだ家」は、52頁上段1〜19行め「はじめに」に、森家一族の男性も含めた著述活動を略述し、4人について2つの章に分けて、まづ(一)が52頁上段20行め〜55頁下段24行めまで、(二)が55頁下段24行め〜57頁下段18行めまで。57頁下段19行めに下寄せで「―二〇一六・二・一二―」の日付。1行分空けて下段20〜37行め「注記」いづれも(一)の前半、53頁下段25行めまでの小金井喜美子の記述に関するもの。1行分空けて後半、53頁下段26行めから森志げについて。(二)は前半、56頁下段32行めまでが森茉莉、残りが小堀杏奴である。
さて、小金井喜美子に関する記述の冒頭、52頁上段21〜22行め、
小金井喜美子は、明治三年(一八七〇)十一月津和/野で生まれた。‥‥
とあって、これは「喜美子 略年譜」の冒頭の条、8頁上段3〜5行め、
0歳 1870(明治3)年
11月29日、父・静男と母・峰子の長女として、島根県鹿足郡津和野町/に生まれる。
とあるのに同じであるが、山崎氏は小金井喜美子に関する記述の末尾、53頁下段24〜25行め、
昭和三十一年(一九五六)一月六日、喜美子は/八十五年の生涯を終えた。
と締め括るのであるが、1行24字詰めであるのに24行めは22字分しかない。校了間際に2字分抜いたように見えるのだが、「喜美子 略年譜」の最後の条、9頁下段39〜40行め、
86歳 1956(昭和31)年
1月26日、逝去。3日後、『鴎外の思ひ出』(八木書店)が刊行。
とあって、満「86歳」となっているのだけれども誕生日以前に「逝去」している。それはともかく、山崎氏の記述に拠ると『鴎外の思ひ出』刊行の23日前に「逝去」していたことになる*2。
さて、この「喜美子 略年譜」であるが、1月14日付(4)に見た単行本再版の「著者略歴」に、歿年月日は一致するが生年月日は一致しない。
しかしながら「喜美子の好きなもの」項、12頁下「自筆原稿『兄の手紙』と/収録本『鴎外の思ひ出』/昭和31年1月 八木書店」のキャプション(横組み)を見るに、
喜美子の85歳の誕生日を期して刊行される予定で/あったが、その3日前に逝去したため遺作となった。/本書の編纂はすべて出版元で行われていたため、収/録された32篇の小文やその配列を、喜美子自身が知/ることはなかった。森銑三は、その文体について「常/に若々しく、みづみづしい。その上に自らなる品格の/あるのが得難い」と評している。『兄の手紙』の初出/は、「文芸」5巻4号(昭和23年4月)。
と、こちらは単行本「著者略歴」に「明治四年一月二十九日、島根県津和野に生る。」としているのに従っている。そして「85歳の誕生日」と云うのも「序にかへて」に前年「正月」の誕生日に「八十四歳」になったと和歌に詠んでいるのと一致している。
これについて、特別展当時、展示説明に矛盾があると指摘した観覧者はいなかったのであろうか。――しかし間違いなく矛盾している。小金井喜美子の誕生日について、特別展「図録」に2つの異なる日付を載せてしまった以上、森鴎外記念館はこれを説明しないといけないと思うのである*3。
図版だが、キャプションの上に小さく単行本の装幀を、表紙を拡げた状態のカラー写真で示し、右側に大きく見開きの状態の原稿のカラー写真を示す。(以下続稿)