瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

読売新聞社横浜支局編『神奈川の伝説』(3)

 昨日の続きで、大藤時彦「序」及び長田与四郎「はじめに」から、本書の由来について述べた箇所を摘記して置こう。
 前者の2頁め(前付4頁め)1~6行め、

 このたび読売新聞社神奈川支局で、県下の伝説の一部をまとめ、一冊子に編まれることは、今まで/こうした類書も少なかったことでもあり、大変有意義のことと思う。新聞記事にありがちな誇張はな/く、行間に探訪された記者諸兄の配慮と努力の跡がうかがえる。さらに興味深いことは、これら伝説/の地や事跡が現在どのような状況になっているか実地に確かめていることである。これによって読者/は過去と現在の変化の相を実感をもってつかむことができよう。今までこうした問題に関心になかっ/た方でも、本書を一読することで、格別の興味を覚えることと確信する次第である。


 後者の1頁め(前付5頁め)7~15行め、

 ここに収録したのは、読売新聞神奈川県民版に昭和四十年九月から四十二年八月まで八十回にわた/って連載された「神奈川の伝説」のうちの六十五回分である。
 新聞では途中で約一年間休載したが、これは四十一年正月から「神奈川の歴史」の連載をはじめた/ためだった。この間、多くの読者からなぜ伝説を休むのかとの苦情と、早く本にしてほしいとの激励/をいただいた。県内にはまだまだ多くの伝説が残されており、わたくしたちのとりあげたのはほんの/一部だが、代表的、かつ興味をそそる内容をと、心がけて選んだ。
 近代化の中で、しだいに忘れ去られてゆくこれらの話を、いま一度読み返し、今日の神奈川を築き/あげた先人の “心のうち” をうかがい知ることができればと思う。なお文は谷川平夫記者、写真は宍/戸一夫カメラマンが担当した。


 谷川氏は2006年10月から2013年3月まで、出身校である日本学園中学校・高等学校(昭和34年卒業)の第15代校長を、2013年度には特別顧問を務めていた。経歴は「日本学園梅窓会」ブログ2014年5月25日日曜日「毎日がいっしょうけんめい。/8年間の校長時代を振り返って。」に拠ると「東京大学文学部卒業後、読売新聞社に入社。パリ支局長などを務める。国際問題担当論説委員を経て論説副委員長。退職後、帝京大学教授。」である。大学に現役合格して4年で卒業、就職したとすれば昭和38年(1963)に読売新聞社入社と云うことになる。すなわち、駆け出しの記者の頃に横浜支局配属となり、20代半ばにこの連載を担当したことになる。
 『神奈川の歴史』は昭和41年(1966)に上中下全3巻で本書より先に刊行されている。なお「神奈川の伝説」も続刊されているようだが未見。
 以下、本文や写真には手を入れていないようだが、写真はやはり上製本の方が鮮明である。
 本文末、254頁(頁付なし)は中央に版本の見開き挿絵を縮小して掲載する。『東海道名所圖會』巻之六の31丁裏から32丁表*1の見開き挿絵「青砥叡智/天下才」であるが、下に添えてあるゴシック体のキャプションが、上製本「「東 海 道 名 所 図 絵 ヨ リ」と字間に余裕があったのが並製本「「東海道名所図絵ヨリ」と詰まっている。
 以下は上質紙、左開き(横組み)で、奥付の向いに上部にやや大きく「解  説 ・ 索  引」とある扉(頁付なし)、裏が「解  説」の1頁で以下小口側下部に算用数字の頁付、4頁まで。4頁の裏が左右2列の「索  引」の1頁で、頁付は下部中央「― 13 ―」まで。
 奥付は中央下部に四隅が僅かに切れている太線の匡郭(7.6×5.0cm)があって、上部中央に細線でやはり四隅の切れた枠(1.7×1.7cm)*2があってその中に明朝体でごく小さく、ここのみ横組みで「(検印廃止)」とある。上右に明朝体でごく小さく3月13日付(1)に引いた印刷・発行日が2行、並製本はこの2行のすぐ下に「(第三版)」と添える。右下にゴシック体でやや大きく標題、その左下にやはりゴシック体で定価を添える。以下、「編 集」と「発 行」と「印 刷」の3者は殆ど同じで異同は「編 集  読売新聞社横浜支局」の左に上製本には「代表 長 田 与 四 郎」と下寄せで添えてあったのがなくなって、それぞれの右にごく小さく添えている住所が上製本では「編 集」の「 集 」の脇に「横浜」とはじまっていたのが、並製本では「編 集」の間の空白の脇に「横」が位置していること。なお「発 行」の住所は「編 集」の代表者を削除したことによって生じた余裕から、若干右にずらしている。
 奥付の裏は白紙。(以下続稿)

*1:綴目に隠れてノドにある丁付が読めないので、実際に数えた数字(算用数字)を示した。

*2:上製本の方が刷りが濃く、横幅が若干狭い。