瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『砂の器』(10)

 昨日の続きと云うより一昨日の続き。
 本作のシナリオを収録するシナリオ作家協会 編『年鑑代表シナリオ集 一九六八年版』について。
 本作は「作品解説」の最後に取り上げられている。415頁上段23行め~下段13行め、

 特別賞になった『砂の器』は、昭和三十六年に発表された松本清/張の同名の推理小説を、数年前松竹で映画化される予定で書かれた/シナリオときく。会社事情でこれまで映画化されていない。やはり/松本清張原作の脚色で、橋本忍山田洋次共同による『ゼロの焦/点』等があり、橋本氏単独では『張込み』『黒い画集』等がある。/大体、松本清張推理小説は、これまでの非現実な怪奇世界にとど【上】まっていた探偵小説とちがって、市井の生活の周辺に眼をそそぎ、/リアリズムの立場から探偵小説の新しい道を切りひらいている。さ/りげない日常生活の断片をみつめていると、そこには非日常的な不/気味な深淵が顔をのぞかせていて、その一点に注目すれば、一見さ/りげない日常生活の断片もたちまちその意味を一変するというよう/な一種の生活認識、人生の実存的な意味変更、といったものを平明/なリアリズムの手法で追っている。そうした原作を、緻密な計算と/論理的な構成と粘着力のある描写でみごとに映像化している橋本忍/氏は、松本清張原作の脚色の第一人者として定評がある。この作品/でも、そうした特色は遺憾なく発揮されている。悪、犯罪などの人/生上の危機に視点を定めて、それを人生そのものの厚みとしてよく/定着させている。あらためて映画化が考えられてよい作品として、/大方の注目を促したい。


 さて、本作の内容を語る場合、専ら原作と完成した映画が比較され、その中間に位置する「オリジナル・シナリオ」は殆ど参照されていないようである。そんな中で、昨日言及した西村雄一郎『清張映画にかけた男たち 『張込み』から『砂の器』へには、177〜313頁「第二部 『砂の器』、そして『黒地の絵』」210~268頁「第二章 それぞれの旅立ち」227~258頁「橋本忍の場合」の節、5項め、237頁3行め~239頁13行め「なぜ恩人を殺すのか?」に、原作と「オリジナル・シナリオ」そして「完成した映画」との比較がなされている。西村氏の指摘の詳細については、追って触れることにする。
 それよりも従来の説明で気になるのは、脚本完成から映画化までの件である。西村氏の本の同じ章の210~226頁「野村芳太郎の場合」の節、1項め、210頁3行め~214頁14行め「『ゼロの焦点』『影の車』――冴える能登の風景」に、213頁9~15行め、

 さて、『ゼロの焦点』の後、橋本と山田は『砂の器』を脚色した。野村も先行して、加藤嘉/と子供の放浪の旅をワン・シーン撮っていたが、ハンセン氏病の問題や、ロケが全国に渡る製/作費の問題で、松竹はGOサインを出さなかった。特に城戸四郎は猛反対した。幻のシナリオ/は、ずっと眠っていたのである。
 しかし、橋本と野村の執念によって、原作が発表されてから一四年、シナリオが完成してか/ら一二年後の一九七四年に、ようやく映画化できた。結果は大ヒット。それから何度もリバイ/バル上映され、松竹の稼ぎ頭となっていることはご承知の通りである。

とあって、「橋本忍の場合」の節でも、4項め「人形浄瑠璃からの発想」の最後、シナリオ完成の経緯について述べた後に237頁1~2行め、

 しかし『砂の器』は、それで終った訳ではなかった。シナリオを完成しても、それを映画/化するためには、大変な時間を要することになるのである。

と、脚本執筆から映画化まで時間が掛かったことを強調する。そして西村氏は、昭和39年(1964)1月の父・橋本徳治の死が、橋本氏を映画化へと突き動かすきっかけとなったと説明するのである。
 しかしながらこれは昨日触れたように西村氏も参照し、この項でも一部を引用(243頁17行め~244頁8行め)している「一発マクリ」の記述(本書406頁中段2~19行め*1)と食い違っている。完全に食い違っている箇所を西村氏は引用していないが、自説の補強のために引用している部分も、やはり西村氏の説明とは噛み合っていないようである。これについては別に、改めて検討することにしよう。
 それはともかく、西村氏は246頁1~5行め、

 それから橋本は、『砂の器』を映画化するために、シナリオの売り込みに奔走した。しかし、/『砂の器』を映画化したいという会社は、どこにも現れなかった。
 そこで、橋本は自分で製作するしかないと思い、一九八三年、「橋本プロダクション」を設/立するのである。それは、後述する松本清張が、『黒地の絵』を映画化するために、「霧プロダ/クション」を旗揚げしたことと同じ理由からであった。

と述べるのである。しかしながら昭和39年(1964)の父の死から、昭和48年(1973)*2のプロダクション設立まで随分時間があるようである。かつその間にあった、シナリオ発表といった動きにも言及していないのが、どうも腑に落ちない。(以下続稿)

*1:異同は本書10~11行め「見/せかけ」がやはり末尾に「(「キネマ旬報」一九六九年一月特別号)」とある西村氏引用では4行め「見せ掛け」とあること。

*2:もちろん「一九八三年」は校正漏れ。