瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

川端康成『朝雲』(8)

・「文學ト云フ事」(4)夜道
 名場面はもう1つ、家政科のバザアの帰り、夜道を一緒に歩く場面がある。ここに流れる André Gagnon の “L'eternel retour” も、昨日触れた縄跳びの場面の “Lettre à Clara” に劣らぬくらい、上手く嵌っている。227頁7行め~228頁17行め、要領は前回引用した縄跳びの場面に同じ。

 五年生が東京から日光への旅行に出發する時は、私の知つてゐる生徒もあるし、あの方に會へ/るかもしれないし、私は驛へ見送りに行つた。あの方はお見かけ出來なかつた。でも家政科のバザアには、あの方もいらつしやるにきまつてゐた。私は母を誘つた。私達がもう歸り際に、食堂/で一休みしてゐると階段を上る人の群のなかに、あの方のお姿をちらつと見た。「お母さま、菊井先生よ、菊井先生よ。」と私は立ち上つた。「さう? どこに?」と母もその方に目をやつたけれ/どもうお見えにならなかつた。「ちよつと御挨拶して行かなければ。」と母は言つた。「鼠色のスウ/ツを着てらしてよ。」私は聲をはずませて階段を駈けのぼつた。
 あの方はお一人で手藝品を見てらした。私は胸がどきどきして身の置き場に迷つた。母はあの方に近づいておじぎをした。あの方は私の方を振り向いてほほゑんで下さつた。あの方は少し恥/かしさうなお顔をなさつた。私はうなだれてそこにゐた誰だか知らない人の肩についつかまり倒/れさうだつた。あの方は私の方へ歩いてらした。「宮子さんは直ぐかくれるのね。」とおつしやつ/た。「どれ、見せて。きれいになつたの?」私はただあわててかぶりを振つた。ああ、あの方は學校にゐた時からの私の態度をみんな知つてらしたのかしら。「お母さまと、そこまで御一緒に歸り【227】ませうね。」とあの方はおやさしくおつしやつた。
 あの方と母とは松並木寄りの片側を歩いて、しかし紋切型のことばかり言ひ合つてゐた。私は母の體にさへぎられて、あの方がよく見えなかつた。默つてゐた。あの方も私を無視してらした。/「宮子さんはお兄さんがおありですわねよそへお出しになりますの?」と、あの方は不意に/おつしやつた。「はあ、いつまでも子供で困つてしまふんでございますよ。」と母は答へた。「さうでもありませんわもし學校へ聞き合はせがあつたらなんと言ひませうかしら。」と、あの方は私/の方を向いて、「感情の激しいお孃さんだつて言ひませうかしら先生はずゐぶんいぢめられましたつて。」私はくらくらと目の前が暗くなつた。きゆつと息がつまつた。嘘よ、そんなこと。」と、/あの方は明るく笑つておしまひになつたけれど、私は並んで歩いてゐるのが苦しかつた。
 後で靜かに考へると、いろいろの意味に取れる、あの方は私は非難なさつたのだらうか。私を警戒するやうにとそれとなく母に注意なさつたのだらうか。またはじやうだんにまぎらはして私の愛情に答へて下さつたのだらうか。どれにしてもこのお言葉が私の手紙に對する、あの方のお返事だと思つた。母はなんにも知らないで、「ほんたうにわがまま者で、ずゐぶん先生に御迷惑か/けたことでございませうね。」と間の拔けたあいさつを續けた。「そんなことありませんわ。私も/女學生の時は、宮子さんのやうに生一本でしたわ。」と、あの方はおつしやつた。私の身うちに眩/しい幸福が光り溢れた。
 あの方は並木の中途から横道へ折れていらした。‥‥


 以下、母娘の会話が続くが、長くなったので割愛する。
 さて、夜道を歩く演出になっているのだけれども、この原文を見る限り、明るいうちだったとしか思えない。白黒の名場面のみに使われておりカラーの予告編には使用されていないから、実際に夜の撮影であったかどうか分からないが、途中に半月も写るのでどうしても夜である。これは、夜道にした方が――どうも土手らしき場所なのだけれども、色々な背景が写り込まない方が良いと云う、演出上の判断なのであろう。
 「宮子の母」を演じた五十嵐五十鈴(1953.5.3~2015.2.10)は満41歳、井出薫より23歳半年上で、丁度母娘と云う年回りである。
 インタータイトルの「お母さま、菊井先生よ、菊井先生よ」の台詞が「あの方はお一人で手芸を見てらした」のナレーションの後に移されている。大きな異同としては他にインタータイトルの台詞「学校へ問い合わせがあったらなんと言いましょうかね」となっていることである。
 原作ではこの後、夏の休みの間に菊井先生が学校を辞め、9月に離任の挨拶に来た菊井先生が国に帰る汽車を在校生たちとともに見送る場面(230頁2~19行め)が最後の山場として設定されているのだけれども、ここではこの、229頁7~8行め「 バザアの歸り道が、あの方といつしよに歩いた最初でありまた最後となつた。授業は別として/あれだけ私にお話して下さつたのもただの一度だけだつたと思ふ。」と回想される場面を、原作の締め括り、231頁1~2行め「‥‥、あの方の思ひ出はもう胸を/痛めない。今私は靜かにしてゐる。」と云う心境に上手く結び付けている。
 そして「文學ノ予告人」石橋氏が天井に提灯風の白硝子の吊り下げ式照明のある門の下に立って新潮文庫を閉じるところを下から写し、

「宮子の恋は、こうして終わりました。この後*1宮子はどんな人生を歩むのでしょうか。それは、川端先生の全作品の中に、さりげなく描かれているんでしょうね。」

と語って満足げにカメラを見たところで、予告編が再上映される。
 しかしながら、原作でのこの会話の最後は引用にある通り「私も女學生の時は、宮子さんのやうに生一本でしたわ」と云う意味深長な台詞なのであって、宮子はしばらく止めていた菊井先生への手紙を再開する。それは「文學ト云フ事」が結論とした宮子の疑問に、ある答えが示されたと宮子が確信したからであろう。しかし最終的に先に引いたような心境に至るのは、菊井先生が母校を辞め、別離をはっきり胸に刻むことが出来たからで、それまでは従妹が菊井先生の教え子で手紙や贈り物を託けたりして、宮子は「まだ學校にゐる気持が拔けてゐないのだつた」。「文學ト云フ事」がこの最終的な訣別を省略したことについては「後で静かに考えると」議論があると思うのである。しかしながら、短時日の制作と云うことを勘案しても、いや余裕がなかったからこそ、この勢いがあってうっかり見入ってしまう見事な演出が為し得られたように思うのである。(以下続稿)

*1:読みは「のち」。「あと」ではなく「のち」と云うべきである。