瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

川端康成『朝雲』(9)

 続いて「文學ト云フ事」の予告編について検討するつもりだったのだけれども、動画を再生させながら原作と色々な場面を対照させる余裕がなかったのでしばらく後に回す。
 さて、私は当時、緒川たまきや井出薫を見て、憧れのような気分にはなったけれども、それ以上ではなかった。3月23日付(1)の前置きに書いたように、私はどうも、恋愛みたいなものの当事者に自分がなると云うことにリアルなものを感じられなくて、学部生の頃にはこのまま恋愛もしないで、それこそ挫折しない『こゝろ』のKみたいになれるんじゃないか、と思えたくらいだった。
 それに、私はどうも、2012年4月1日付「角川文庫の『竹取物語』(03)」等に述べたように、どうもブラウン管の中の美女や美少女を何とも思わないようなところがあって、それは全く現実感がないからなのである。大体、ブラウン管に映る姿が演技なのだから、そんなものを真に受けたところで仕方がない、と、二十歳くらいまでの生一本な私は思っていて、それは「文學ト云フ事」をリアルタイムで視聴したときにも多分変わらなかったけれども、しかしこういうものを、いくら2014年10月10日付「岡本かの子『老妓抄』の文庫本(4)」に述べたように風呂上りの火照りが冷めない間の時間潰しだとは云え見続けたのは、やはり10代のときほど抵抗を覚えなくなったからで、年齢を重ねることで、これまで何となく恥ずかしくて見ていられなかったのを素直に美しいもののように見られるようになったのである。
 そして、自分も女子高に非常勤講師として勤務して、中島敦新美南吉など、高等女学校の教諭で若くして死んだ文学者などを知るに付け、どうも、そう云う一種独特の、女学校文化みたいなものがあるのではないか、と、思うようになった。そんな大層なものではないかも知れないが、少々この見当を掘り下げて見ようと思いつつ、結局果たさぬまま今に至っている。
 女学校文化と云うことでは、創作の方面だけではなく、いやむしろ文学研究の方面での成果が大きいかも知れない。
 本作にも冒頭近く、『川端康成全集』第七卷212頁8行め~213頁2行め、

 あの方の授業はおやさし過ぎて物足りなかつた。ところどころに抑揚をつけて御自分が文章に/陶醉しながら朗讀なさつた前の先生にくらべると、あの方はあまり素直にお讀みになつた。不斷/着でお話してゐるやうな讀み方だつた。國語の先生らしくないと私達には聞えた。前の先生がい/らしたら、「文章の味がわからないのですか。」と、あの方は注意をお受けになりさうだつた。解/釋も簡單で、前の先生のやうに文章をあれこれと鑑賞したりはなさらなかつた。こんな風に早く/進んでゆくと一年分の讀本が三月か四月でしまひさうに思はれた。
 前の男の先生はたいへん自信を持つていらして、いつまでも地方の女學校の教師として埋もれ/てゐる身ではないと授業中にさへおつしやつた。國文學の專門雜誌に御自分の研究が發表される/と教室に持つていらして、私達にも讀んでお聞かせになつた。女學校の二年や三年の私達はよく/わからないながら先生を崇拜した。さうしてかねてのお言葉通り上の學校の講師に出世をなさつ/た時は、私達の學校になんの未練もなく別れていらした。それで私達は一層えらい先生だつたと/氣がついたけれど、取り殘されたやうでさびしかつた。國語が得意で成績もよかつた私は、女學【212】校を出たら、國文學の研究でいつか再び先生に認められたいなどと考へたりした。
 その後任にいらしたのが、あの方だつた。私達が三年になつたばかりの四月だつた。

と前任の国語教師について説明している。なお「四月」の読みは1つめは「よつき」で2つめは「しがつ」である。
 要するに、大学卒業後すぐに研究職に就けなかった者が、勤務の合間に研究を継続出来る場所として位置付けられていた訳である。
 この構図は平成初年までは継続していて、私の入った大学院でも、地方の短大の専任講師職を先輩から後輩へと紹介して受け継いで行くと云ったことが行われていた。それが、私の知っている博士課程の院生が紹介を拒否したのである。――思えば、そろそろ上が滞って、東京もしくは地方でも四年制大学に出世する機会は限られ始めていたから、地方の経営の苦しい短大に行ったらそのまま短大の維持のための雑用に使役されるばかり、それなら非常勤講師でも東京で粘った方が良いと思ったのだろう。しかしそこでこの専任講師の紹介は途切れてしまった*1
 昭和の頃は、学生数も増えて、短大や女子大も続々開学して、大抵国文科があったから、高校教師をやっていた人でも先輩から声が掛かって大学の教員に出世出来たのだった。今もいない訳ではないが、昭和の雑誌を見ると高等学校教諭の論文が少なくなかったように思う。専任教諭をやりながら研究を続けているうち、人脈から大学に赴任出来たのである。
 私が院生だった頃、こんな按配の、初めは都立高校教諭をやったり、公務員をしたりしつつ研究を継続して、認められて大学に呼ばれたような人たちが教授だった。そういう人たちは自分たちの成功体験で判断するから概して楽観的で、私のような非常に(!)優秀な人材は(と敢えて云って置こう)今は苦しくてもいづれ何とかなると前向きに励ましてくれるのだった。しかしそんな見通しを共有出来ない私には、その善意が堪らなく、息苦しかったのである。(以下続稿)

*1:4月1日追記】別に恨み言ではありません。この短大専任講師は私とは別の時代の専攻が代々引き継いでいたもので、私は無関係であった。私の専攻した時代では、高校非常勤講師の紹介しかなかった。――念のため。