瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(03)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(178)」を「『三田村鳶魚日記』(03)」に改めます。前置きの文を削除(見せ消ち)にした他は手を入れておりません。

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 4月11日付(176)の続きだけれども、今回の記事も全く本題に入らないことをお断りして置きます。
・『三田村鳶魚日記』(3)
 『三田村鳶魚日記』は20年程前に、三田村氏の調査旅行の世話をしたある国文学者の伝記を調べていて、参照したことがあるのだけれども、その後、近所に所蔵している図書館がなかったためか久しく閲覧していなかった。興味はありながら遠ざかってしまったのは、きちんと使いこなすのは大変だ、と思ったからである。
 その、ある国文学者について『三田村鳶魚日記』を調べるとして、当人同士の交際だけでなく交遊圏と云うことになろうか、輪講などで同席している人物についても注意して置く必要がある。しかし索引がないので、交際があったと思われる時期について、きちんと見て置かないといけない。きちんとした索引があればその手間を掛けずに、好き勝手に遊ぶことが出来るのだが、ないので索引作りと同じくらいの注意を払って点検しないといけない。
 可能ならば私が作ってしまいたいのだが、しかし1000頁を超える日記の索引など滅多に作れそうにないので、『三田村鳶魚全集』に収録されなかった昭和19年(1944)の日記を所蔵している早稲田大学演劇博物館辺りで、現在「演劇研究」に連載中の三村竹清日記『不秋草堂日暦』翻刻完結の折にでも、『三田村鳶魚日記』とセットで索引を作成してもらえないだろうか。参加したいくらいだけれども参加資格はなさそうなので遠慮します。
 或いは、もし個人で作成した人がいるのなら、今のご時世では出版するのも大変だからいっそネット上に公開してはどうだろう。電子書籍や有料サイトでも良いかも知れない。校正(入力)が大変そうだけれども。
 さて、『三田村鳶魚全集』別巻には前回触れた「索引」の他に、489~561頁「三田村鳶魚著作目録」と563~579頁「三田村鳶魚全集総目次」があって、前者の489頁(頁付なし)扉の裏、490頁(頁付なし)に「凡 例」として6項、その6項めに「一、著作の間に、若干の年譜的記述も插入した。」とあるように「年譜」も兼ねているのだが、これについては561頁、朝倉治彦「編集後記」の下段11~17行めに、

三田村鳶魚著作目録」は、鳶魚の主要な著作活動を年/代順に一覧できるよう考慮し、単に著作の発表、単行本/の刊行等の記事だけでなく、主として著作に関係のある/年譜的事項をも併記した。この著作目録の作製にあたっ/ては、昭和四十七年、筑摩書房刊『明治文学全集』第九/十巻所収の、杉崎俊夫氏編の「三田村玄龍年譜」を参照/させていただいた。記して謝意を表したい。

とあって、この明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』(一九七二年一月三十日初版第一刷發行・一九八九年二月二十日初版第五刷發行・筑摩書房・413頁・A5判上製本)の400~411頁「年譜」の後半、406~411頁、杉崎俊夫編「三田村玄龍」を参照している。

明治文學全集 90 明治歴史文學集(二)

明治文學全集 90 明治歴史文學集(二)

 この杉崎氏編の「年譜」は、日記を参照していないので訂正が必要であるが、『三田村鳶魚全集』別巻の「三田村鳶魚著作目録」には採られていない事項も多く、並べて参照すべきものである。
 例えば、三田村鳶魚と云えば輪講の会場にもなっていた、中野文園町の家が知られている。当然のことながら、昭和14年(1939)の赤マント流言の頃にも文園町に住んでいた。ところが「三田村鳶魚著作目録」を見る限りでは、いつから文園町の家に住んでいたのかが明瞭でない。一方、杉崎氏の「年譜」には、時期が正確でないらしいのだがとにかく、いつから文園町と呼ぶようになったのかが注意されている。
 ちなみに中野区文園町は住居表示の実施により昭和41年(1966)10月に中野6丁目になった。旧文園町は中央線中野駅東中野駅間の北側、中央線から見える中野区立文園児童館辺り*1から西の線路沿い、神田川の支流桃園川のさらに支流を中央線の土手が跨いでいるなだらかな谷間で、文園通りや文園西公園にその名をとどめている。現在の中野区中野6丁目の南側、すなわち「中野区町会・自治会マップ」の「文園町会」の範囲である。(以下続稿)

*1:2013年3月2日付「小池壮彦『怪談 FINAL EDITION』(3)」に取り上げた『現代民話考』の「魔の踏切」は、文園児童館の東、200mほどのところにあった。