瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(04)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(179)」を「『三田村鳶魚日記』(04)」に改めます。記事名や番号のズレを修正した他は手を入れておりません。

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・『三田村鳶魚日記』(4)文園町の家①
 それでは4月13日付(03)の続きで、三田村鳶魚昭和14年(1939)当時の住所について、明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』所収、杉崎俊夫編「年譜/三田村玄龍」と『三田村鳶魚全集』別巻「三田村鳶魚著作目録」、そして『三田村鳶魚日記』(『三田村鳶魚全集』第廿五巻・第廿六巻・第廿七巻所収)を対照させながら確認して置きましょう。
 久しく大久保(現・新宿区)辺に住んでいた三田村氏が中野に移ったのは、杉崎俊夫編「年譜」では「大正十一年(一九二二) 五十二歳」条の最後に「このころ、東京市外中野町打越二十六番地内に居宅を建築したか。」とあります(408頁上段8行め)。これは実はもっと早く、「三田村鳶魚著作目録」には、大正九年三月条に、505頁下段7~8行め「二十三日、市外中野二一〇四番地一号、一六〇坪借/地す。」とあり、八月条に、506頁上段10行め「三日、中野町大塚竜興寺に移る。」そして大正九年条の最後、十二月、506頁下段17行め「十日、新屋に移る。」とあります。『三田村鳶魚日記』では大正九年三月二十五日(木)条に、346頁上段2~3行め「‥‥。○市外大字中野/二千百四番地一号百六十坪借入。○‥‥」とあって、何故か「三田村鳶魚著作目録」とは日付が異なります。八月二日(月)条に、356頁下段12行め「‥/‥。○移転準備に吉田粂爾、政教社より二人来援。○‥/‥」、八月三日(火)条に、356頁下段15~16行め「中野町大塚竜興寺に移る。○昨日の人々来援。馬車三台/を雇ふ。○‥‥」とあって、臨済宗妙心寺派慈雲山龍興寺に移っています。龍興寺東京市小石川區小日向水道町九十番地から明治41年(1908)に東京府豊多摩郡中野町に移転しました。現在、中野区上高田1丁目2番地12号なのですがこれは住居表示によって、従来は龍興寺の背後の、妙正寺川の支流の谷筋が中野町と野方村(野方町)の境界だったのが、両町が東京市に併合されて中野区になったことで、例の住居表示の実施により早稲田通りまでが上高田にされてしまったためなのです。
 移転後の心境を窺わせる記述としては、八月九日(月)条、357頁上段16~18行め「‥‥。○夜中野町/まで散策す。馬鹿囃子の稽古せる音聞ゆ。田舎らしき様/子心地よし。○‥‥」を挙げて置きましょう。当時の中野町の中心部は、神田川に掛かる淀橋から今の地下鉄丸ノ内線中野坂上駅を経て新中野駅辺りまでの青梅街道沿いでした。(以下続稿)