瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(05)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのですが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまいました。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(180)」を「『三田村鳶魚日記』(05)」に改めます。本文には手を入れておりません。

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 昨日、今回の最後まで書いてしまうつもりだったのですが、勤務後、夕方に都内に出て、改札を出たとき、うっかり十数年前、産休代講で勤めたことのある女子高が近いことに気付いて、10年前だったら避けて通るところだったのですが、今や知った顔に会っても私のことは覚えていないだろうし、仮に話すようなことになっても今更どうもしませんから、少し回り道をして脇を歩いて見ました。通学路も当時の趣を残していて感慨深かったのですが、何年か前にたまたま Google Map で建替えか何かで仮校舎に移転していたことを知ったので、流石にいろいろ変わっているのだろうと思いの外、外観は吃驚するくらい変わっていなくて何とも懐かしくなり、或いは当時の同僚講師が今も続いているかも知れない、と思ったのですが、いないかも知れないので訪ねるのは止して置きました。――そんな余計なことをしたせいか、帰宅後ぐったりしてしまい、当初から赤マントには到着しない予定が、その半分も達せられなかったのでした。

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・『三田村鳶魚日記』(5)文園町の家②
 それから家屋建築に掛かったようです。すなわち、大正九年九月二日(木)条に、358頁下段16~17行め「‥‥。○山田益次氏を招き、大工と対談を頼み、手付金/を渡す。○‥‥」とあり、九月十二日(日)条に、359頁上段18~19行め「‥‥。○山田益次氏来り、大工と縄を打つ、平/音次郎も来る。」と続いて、索引があれば山田氏がどんな人物なのか見当を付け易いのですけれども、今、前後の記事を点検して確認する余裕がありません。平氏「も」建築に関連して八王子から出て来たようにも読めますが、これだけでははっきりしません。
 そして十月一日(金)条に、360頁下段13行め「‥‥。○新築の地盛。○‥‥」とあり、十月四日(月)条、361頁上段6行め「‥‥。○棟上。○山田益次氏。○両人同伴、喜之舞台の紅葉狩見物。○‥‥」と続きますが山田氏の他に人名はないので「両人」のもう1人が誰だか分かりません。書かなくても分かる人、と云うことでしょうか。
 十月二十四日(日)条、362頁上段18~19行め「八重を池袋の大工浅野政次に遣す、同人病気により工事/延引。○‥‥」、十月二十五日(月)条、362頁下段1~2行め「樋口新六、山田益次氏。○鉄樹居士を頼み、政大工の横/痃切開を石津軍医施術。○‥‥」などと云うトラブルもありました。八重(1884.9.11~1951.2.3)は後で触れる機会があるかと思いますが鳶魚夫人で大正2年(1913)8月18日に結婚しました(杉崎氏編「年譜」)。樋口新六は樋口二葉(1863~1930.10.27)、鉄樹居士は山岡鐵舟(1836.六.十~1888.7.19)の最晩年の弟子・小倉鐵樹(1865~1944.4.1)で、三田村氏と鐵樹居士の関係は「一九会道場」HP「道場の歩み」前半により窺うことが出来ます。

おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝

おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

OD>おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

OD>おれの師匠―山岡鐵舟先生正伝

 なお、鎌倉移転後の昭和13年(1938)に日本画家の溝上遊龜、すなわち小倉遊亀(1895.3.1~2000.7.23)と結婚しています。石津軍医は石津寛でしょうか、医学書院の「『日本近現代医学人名事典【1868-2011】』 収載人名一覧」に出ていますので追って確認の機会を得たいと思います。(以下続稿)