瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(10)

・文園町の家(5)
 さて、4月19日付(08)に注意した、中学時代の松本亀松が「下吉」の吉田書店に奥野信太郎と大川逞一(1899.5.17~1992.9.18)の3人で入り浸っていたことは、「三田村鳶魚全集月報」第27号掲載の座談会「三田村鳶魚輪講会」(朝倉治彦 編『鳶魚江戸学 座談集』では「鳶魚の輪講」)の、昨日引いた松本氏の発言(「月報」1頁下段5~16行め・『鳶魚江戸学』367頁8~12行め)の、1つ後の発言(「月報」1頁下段17行め~2頁上段19行め・『鳶魚江戸学』367頁14行め~368頁10行め)で説明されているのだが、また長くなるし、このままでは『三田村鳶魚日記』の確認で年が暮れそうである。
 そこでこの件については、やっぱり江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談の「第八回 この本はおまえさんに譲ってやろう」に戻って済ませて置くことにする。321頁1~6行め、

 三田村翁は、諸書を下谷の和本専門の古書肆、吉田書店から主として求めておられ/ました。翁の日記には吉田主人とか里子*1(俳号)と出ているように懇意の方です。当/時の吉田書店のことは孫の松山荘二氏が『古書肆「したよし」の記』(「したよし」とは、下谷の吉田書店の符丁、平凡社刊)に詳しく紹介されています。それによると、店/内には奥野先生や松本亀松さんとか、いつも数人の若手がワイワイたむろしていたそ/うです。大正の末のころだといいます。


 松山荘二は登山家吉田二郎(1930~2003.3.15)の筆名で、『古書肆「したよし」の記』はその最晩年の著書である。

古書肆「したよし」の記

古書肆「したよし」の記

 未見。――もちろん、松本氏はこの本を参照していない。
 吉田書店の主人の俳号については、松本氏も座談会で説明している。「月報」7頁上段8~10行めに、

 朝倉 それから吉田里子と書く方は……。
 松本 それが吉田吉五郎さん。リシです。
 朝倉 それが俳号ですか。

とあって、『鳶魚江戸学』374頁14~16行めでも、字下げしていないのと、朝倉氏の発言の「それが」が削除されている他は同じだが、続く松本氏の発言はかなり簡略化されている。「月報」7頁上段11~15行め、

 松本 そうです。それが俳書の天下一だったんで、どこの古/本屋でも、あの人が出てくると俳書のことだったら黙っちゃう/というふうなことだった。案外軟派のものは扱っていませんで/したけれども、俳書は扱っていた。息子の代になると今度は易/の本を扱いはじめた。


 『鳶魚江戸学』374頁17~18行め、

松本 そうです。案外軟派のものは扱っていませんでしたけれども、俳書は天下一。息子の代に/なると今度は易の本を扱いはじめた。


 内容としては同じだけれども、面白みを欠いてしまったように感じる。
 細かく異同を見て行くと際限がないのでここまでにして、見出しとした件について、松本氏の発言を見て置こう。松本氏が三田村家に出入りするようになった、大正15年(1926)頃のことについて、「月報」2頁下段22行め~3頁上段6行め、

 朝倉 そのときは三田村先生は中野の文園町にお住まいでし/たか。
 松本 中野におられました。とにかくいいうちでしてね。安/普請だといっていましたけれども、いいお住居でした。小壁の【2】高さが非常に高いんです。三田村さんは僧籍しかない人で、俗/人の籍を持っていない人でした。ですから寛永寺に育ったとい/うことが、いつまでも頭のなかに残っているんで、寺のような/柱の高い家に住む。なにも必要ないのに、その住居は小壁が一/間くらいありましたからね。そういううちに住んでいるわけで/す。

と述べているのだが、『鳶魚江戸学』では朝倉氏の発言(369頁6行め)は同じだが、369頁7~9行め、

松本 中野です。安普請だといっていましたけれども、とにかくいいうちでしてね。小壁の高さ/が一間くらい非常に高いんです。三田村さんは僧籍しかない人で、寛永寺に育ったということが/いつまでも頭のなかに残っているんで、寺のような柱の高い家づくりをしていたんですね。

と、これは流石に端折り過ぎのような気がする。(以下続稿)

*1:ルビ「りし」。