瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(12)

昭和7年の満韓旅行(2)
 昭和7年(1932)6月中下旬の満洲、7月上中旬の朝鮮旅行の帰途、神戸に立ち寄った三田村氏について、昨日に引き続いて、内田宗一作成「小野文庫所蔵忍頂寺務宛書簡目録」及び青田寿美監修「忍頂寺務年譜データベース」を参照しつつ、確認して置きたい。
 七月十九日(火)条の続き、

‥‥。/○三人連れにて西宮神社に行き、吉井太郎氏に逢ひ色々/聴取、昼餉の馳走になり夕景に戻る、武庫の川千鳥借用。

とある。神戸には朝着いたようだ。前回触れた「1034|三田村鳶魚(玄龍)」の、帰国を予告する忍頂寺務宛昭和7年7月15日付葉書についての、内田氏に拠る「備考」欄に拠ると、吉井氏は西宮神社の社司。大正10年(1921)7月刊『武庫の川千鳥』はその父で西宮神社神職吉井良秀(1853~1939.1.25)の著書で忍頂寺氏の蔵書、八月十二日(金)条に忍頂寺氏宛に書留で返送したことが見えている。
 吉井氏との縁は、昭和三年五月十日(木)条に、

忍頂寺氏ヨリ吉井太郎氏著淡路ト西宮ニ於ケル人形操ノ/調査転致、コレハ吉井氏恵与ノヨシ、直ニ礼状、○‥‥/‥‥

とあるのがきっかけのようだ(「忍頂寺務年譜データベース」)。吉井氏は昭和14年(1939)父の死去に伴って跡目相続したのを機に良尚と改名している(「1308|吉井良尚」カード)。晩年の昭和37年(1962)9月に吉井良尚先生古稀勤続五十年祝賀会により『吉井良尚選集』が刊行されている。未見。
 七月二十日(水)条、訪ねて来た忍頂寺氏と菅氏と話し、それから多田氏の案内で石割松太郎を訪ね、留守宅からの届け物・書面を受け取っている。当ブログで注意している河本正義が登場するのはその続き、353頁上段6~14行め、

‥‥。○夜、盧水にて、/神戸陳書会小集へ出席、○五十崎夏次郎(神戸、下山手/通六ノ九〇)、南木芳太郎、太田陸郎(同市、須磨区養/老町二ノ一)、忍頂寺務、川島右次(神戸、中山手通四/ノ三四)、河本正義(湊区馬場町四一一)、久保田韓七郎/(湊区矢部町六)、菅稲吉(葺合区宮本通六ノ五一)、柏/木武雄(須磨区松風町二ノ二ノ四)、杉本要(大阪、南区/八幡筋玉道町)、横田照二(兵庫県武庫郡精道村打出親/王塚八)、江見恒三郎(同芦屋九の坪一一六七)。

と、出席者名を列挙した中に見える。住所を書いているのは初対面もしくは書信の遣り取りをしていなかった人であろう。
 この会については「忍頂寺務年譜データベース」の「19320720|昭和07/07/20」条「備考」欄に「『陳書』4(昭和09/02)では、昭和07/07/15と誤記。」とあるように、神戸陳書会が発行していた雑誌「陳書」に記事があるようだ。
 「陳書」は国立国会図書館には所蔵されていない。普通に「陳書」で検索すると China 正史の『陳書』がヒットしてしまう。しかしながら、国文学研究資料館HPの「電子資料館/近代文献情報データベース/近代書誌・近代画像データベース」にて、大阪大学附属図書館・小野文庫所蔵の全15冊揃いが閲覧出来る。「陳書」第四輯(昭和九年二月十三日印刷・昭和九年二月二十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二八頁)の一頁「況 狀 催 開 會 例」の1項め(1~2行め)に、

昭和七年七月十五日陳書第三輯出版に當り、あたかも三田村鳶魚先生滿韓旅行よりの歸途を擁し歡迎會を兼ね/て例會を開催爾來一年有半會誌發行の事なかりしが多く例月例會を開催今日に及べり。

とある。七月十五日とは「陳書」第三輯(昭和七年七月十三日印刷・昭和七年七月十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二六頁)の発行日を示したので、必ずしも三田村氏の歓迎会を兼ねた例会の日を指してはいないような気もする。(以下続稿)