瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(14)

・皆川家との関係(1)
 4月17日付(06)に、『三田村鳶魚日記』大正九年十一月九日(火)条、中野の新築の家に転居した当日の記事に見える「操」について、江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談の記述を引いて置きました。そこには、374頁6~8行め、

‥‥。もとも/と自分の養子にするつもりでいた奥さんの妹さんが、満州国の高級官吏だった皆川さ/んという人のところへお嫁にいって子どもを二人もうけました。‥‥

とありました。但し小川氏はこの結婚について、4月19日付(08)に引いた箇所では、321頁13~14行め、

‥‥。鳶魚翁夫妻は操さんの嫁入りに/ついてずいぶんお骨折りになったとのことでした。

としているように、伝聞によって書いています。
 小川氏は、縁談が上手く纏まるよう「お骨折りになった」と思っているようなのですが、322頁14行め~323頁3行め、

三田村鳶魚日記』における私の記事の初出は七月三日です。【322】

昭和十八年七月三日(土)雨
夜、慶応学生小川恭一、大名の席につきて来問ふ、奥野信太郎氏紹介。

 最初にお会いしたときに「柳営故実」というお話をうかがいました。‥‥

と述べているように、皆川豊治と高松操の結婚より20年余り後に三田村家に出入りするようになったので、確かに小川氏が出入りしていた頃には、374頁9行め、高齢の「三田村夫妻としては非常に頼りにして」いたことでしょう、ですからそんな風に思ったのも無理もないと思うのです。しかしながら実際のところ、「養子にするつもりで」学校にも行かせ、観劇や旅行などにも度々同伴して随分可愛がって来たのに、自分たちの意に添わぬ恋愛結婚を言い出して三田村家を出た高松(皆川)操に「ずいぶん苦い思いをさせられた」と云うのが、『三田村鳶魚日記』を辿った上で導かれる真相なのです。
 小川氏の証言は、『三田村鳶魚日記』を確認しなかったことで却って、小川氏出入り当時の三田村氏の義妹夫婦に対する応対振りを窺わせて、私なぞにとってはむしろ貴重に思われるのですけれども。(以下続稿)