瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(21)

昭和7年の満韓旅行(5)
 5月9日付(20)の続き。
 昭和7年(1932)6月に三田村氏が長春(新京)で10年振りに会った皆川豊治について、六月二十九日(水)条に「李と栗山夫妻、皆川一同」とあるのを、当初「李(文権)と栗山夫妻、皆川(の)一同(4人)」と解して単身赴任であると思ったのですが、これは「李と栗山夫妻、皆川(家の)一同」とも解せると思い直して、5月6日付(17)及び5月7日付(18)の単身赴任とした件を削除(見せ消ち)にしました。もし後者の解釈で合っているとすれば、三田村氏は義妹にも10年振りに会い、そしてその子供たちと初対面を果たしていることになります。
 李文権とは大連で交誼を深めていたのですが、三田村氏とほぼ時を同じくして長春に移って来たようです。
 そして長春での最終日、六月三十日(木)条、冒頭(350頁上段20行め)に、「霎雨頻到、雷亦鳴る。○再び袁金鎧先生を訪ふ、‥‥」とあって、長春に到着した6月23日に会っている袁金鎧(1870~1947.3)に、再び会っています。

 袁金鎧の名は、5月3日付「「三田村鳶魚全集月報」(1)」の【5月4日追記】に触れた、「月報」第5号を見るために借りた『三田村鳶魚全集』第十四巻に収録されている、295~338頁「お医者様の話」に見えていました。すなわち2節め、297頁下段~299頁上段14行め「金州の知医」に、297頁下段2~6行め、

 薬験といえば、患者に現われるよりも、医者自身に凄/じく利いた、おもしろいその一例が満洲にある。現に満/洲国の参議になっている袁金鎧が、張作霖の下に遼陽の/警察署長であった時に、警察書記に任用した王永江、こ/の王永江は金州の知医であった。知医というのは、‥‥*1

と、以下、袁氏から聞いたと思しき「支那有数の財政家」王永江(1872.正.九~1927.11.1)の事績が語られています。381~385頁、朝倉治彦「編集後記」を参照するに、383頁下段12~15行め(1行め1字下げ、2行め以降2字下げ)、

お医者様の話 『医文学』昭和七年九月号より昭和八/年十月号まで十三回連載(六月号休載)、ただし第九/回目以降は食事・燈火を扱っているため、本全集第/七巻・第十巻収録篇との重複を考慮して省いた。

とあって、『三田村鳶魚日記』昭和七年八月九日(火)条に、355頁上段11行め「お医者様の話(一)、十四枚。」とあり、八月十日(水)条に、14~15行め「‥‥。○昨夜の原稿を藻城/氏へ送る。○‥‥」とあります。「醫文學」は大正14年(1925)創刊で昭和11年(1936)5月号を以て長尾藻城(折三。1866~1936.5.14)の死により廃刊となりました。『三田村鳶魚全集』では連載の切れ目が分かりませんが、王永江の話は(一)の後半であったものと思われます。すなわち、早速この旅行で仕入れた話題を活用している訳です。なお『三田村鳶魚全集』別巻の「人名索引」を見るに「王永江」は31頁中段18行めに「⑭二九七‐九」と見えます(漢数字半角)が「袁金鎧」は立項されていません。これについては7~8頁「凡例」の1項めを見るに、7頁上段2~5行め(3行め以降1字下げ)、

一、この索引は、『三田村鳶魚全集』の第一巻から第廿四/巻までに収められた著作にあらわれる、主要な人名・/書名 (小説・戯曲・詩歌等の作品名を含む) ならびに事項/検索のために編集した。

とあります。――これでは『三田村鳶魚日記』の索引は初めから作られなかったのではないか、と思えて来ました。
 さらに見て置くと、八月十八日(木)条に、356頁上段6~8行め「‥‥。○政教社へ往き、国友藤兵/衛伝を貰ひ帰る、此間に、藻城氏より使あり、同氏には/政教社にて面会したれば、行違ひなれど用事は弁じたり。」とあり、八月二十二日(月)条に、下段6~7行め「‥‥。○医文学校正。速/達。‥‥」とあります。
 同じく満洲土産の著述としては、八月十三日(土)条に、355頁下段5~6行め「‥‥。○博文館、/岡戸氏より使にて、学良談を十五日まで頼むと申来る。」とあり、八月十四日(日)条に、8~10行めに「‥‥、○勉/めて執筆。/ 張学良の荒淫暴露、十三枚」、そして八月十五日(月)条に、14行め「‥‥。○博文館の使に、昨日脱稿の分を渡す。○‥‥」とあるのですが「三田村鳶魚著作目録」を見てもそれらしきものは見当たらず、「人名索引」に張学良の名もありません(江戸学以外の著述はそもそも収録していない『全集』なのですけれども)。
 博文館の岡戸武平が、上京前に讀賣新聞社「本社五十五周年記念懸賞大衆文藝」に応募していたことについては、2015年12月3日付「山本禾太郎「第四の椅子」(16)」の前後に取り上げたことがあります。岡戸氏については最晩年の三田村氏が、終の棲家となった山梨県西八代郡富里村の不二ホテルから名古屋の尾崎久弥(1890.6.28~1972.6.2)に作家の戸羽山瀚を介して送った随筆「法華三昧」に、『三田村鳶魚全集』第廿七巻403頁下段9~11行め、

 岡戸武平氏は名古屋にをらるるや否、お聞かせ下さい。/同氏は物知りにて教へらるること多し、今日も聞きたき/こと山々。

との記述がありました。
 ちなみに「法華三昧」の次の条に、12~13行め、

 石田某といふ医学の先生、蔵書家にていろいろ書かれ/しが、この頃聞えず、どうされましたか。

とあるのは愛知医科大学教授であった石田元季(1877.5.17~1943.1.9)でしょう。(以下続稿)

*1:ルビ「えんきんかい・ちようさくりん」。